敗戦の日を前にした8月11日の朝日紙「ニュースの本棚」欄に、ノンフィクション作家の保阪正康さんの「戦争観と戦後史:老・壮・青はどう見てきたか」と題する文が掲載されていました。
保阪さんは「戦争」についての基本的な理解は二つの点にしぼられるとして、カール・フォン・クラウゼヴィッツの有名な言葉「戦争は政治の延長」をかみくだいた、戦争は「政治の失敗」に起因するということと、戦争は「非日常の倫理・道徳が支配する空間」ということを、まず述べています。そして、この理解の上に立って、「まっとうな戦争観を真摯(しんし)に確認するために今読むべき書」として、「老壮青という三つの世代が読んできた書」を紹介しています。
「老」の世代の書としては、吉田満(1923年生まれ)の『戦艦大和ノ最後』を挙げ、国家の歯車でよしとする兵学校出身者と、それだけではあるまいと反論し、戦争を「政治の失敗」とみる意識のある学徒兵の論争の場面に、「戦争の本質が凝縮している」と評しています。
「壮」の世代の書としては、小田実(1932年生まれ)の『「難死」の思想』を挙げています。「散華(さんげ)」(筆者注:本来は仏教上の言葉ですが、誤って、戦死を美化する表現に用いられています)ではなく「難死」ともいうべき多くの人の戦争被災死について、小田が「私はその意味を問い続け、その問いかけの上に自分の世界をかたちづくって来た」と書いて、「真の戦争観の確立をわれわれは成し得ているかとの問いをつきつけ」ている、と紹介しています。
「青」の世代の書として、加藤陽子(1950年生まれ)の『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』(上掲のイメージはそのカバー)を挙げ、「中高生に日清戦争から太平洋戦争までの近代日本の戦争の内実を平易に語っている」と紹介し、また、「加藤の姿勢には戦争の二つの基本的な理解につながる誠実さがある」と評しています。そして、「三つの世代がそれぞれの世代の書にふれることで、戦争観はより強固な戦後史として定着していく」と結んでいます。
「三つの世代がそれぞれの世代の書にふれる」のは、ある程度自然な成り行きでしょうが、三つの世代がそれぞれの世代を超えた書にふれるように努めることも重要でしょう。筆者は生年からいえば、小田実の世代に属しますが、上記の加藤陽子の書を、いまは亡き丸谷才一のエッセイ「史料としての日記」[『図書』No. 746, p. 32 (2011)]が絶賛しているのを読み、その書を読んでみたいと思いながらも、まだその思いを達成していません。丸谷が、一点においてだけ、加藤の記述に異論を唱えていることに興味をいだき、そのエッセイの掲載号をまだ廃棄していませんでした(ここに、その異論を紹介すれば、廃棄できることになります)。
異論の対象になっているのは、加藤が「いろいろな業種の日本人五人[政治学者・南原繁、中国文学研究者・竹内好、小説家・伊藤整、山形県の農民・阿部太一、横浜の駅員・小長谷三郎]の、日米開戦に際しての感想を引き、うち一人[南原繁]のものを除いてはこの戦争に好感を抱いている、彼らはこのいくさを歓迎したと判定」(丸谷の文から。[ ]内は説明のため、同じ文の他の箇所から筆者が拾って挿入)しているところです。丸谷は、竹内好の文章は大東亜戦争賛美に名を借りて日中戦争を非難する方に力点をかけてあると見、伊藤整の日記については大東亜戦争それ自体を賛美し肯定しているわけでなく慎重に言葉を選んで書いていると見て、そういうところを「感じ取ってもらいたかった」と述べ、この好著を惜しんでいました。
ところで、保阪さんの「非日常の倫理・道徳が支配する空間」という言葉をいい換えれば、「狂った空間」ということにもなるでしょう。そして、保阪さんの「戦争についての二つの基本的理解」をもとにして考えれば、軍備の増強・拡張を進める政権は、自らの失敗を予想して、「狂った空間」を作り出すことに精を出しているいるものといえましょう。いまの安倍政権は、集団的自衛権の容認や、憲法改悪によって、まさにそういう愚かな政策を進めようとしているではありませんか。私たちは、これに対して No! をつきつけなければなりません。
多幡記
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