2011年1月17日月曜日

「大阪空襲訴訟2周年のつどい」が開かれました

 太平洋戦争開戦から69年目の2010年12月8日、大阪空襲訴訟二周年のつどいが大阪市中央区ドーンセンターで開かれました。参加者は350名でした。原告団代表世話人の安野輝子さん(鳳南町)が挨拶されました。ここに紹介します。




 こんばんは。大阪空襲原告団・代表世話人の安野輝子です。師走の気ぜわしい時期の夜にもかかわらず、本日はこんなにもお集まりいただきありがとうございます。大阪空襲訴訟2周年の集いをもてるのも、皆さまのご支援のおかげと感謝いたしております。

 あの戦争から65年。私たち空襲被災者は、一日も心の安らぎのない人生を強いられてきました。私は6歳の時、米軍の落とした爆弾の破片をうけ、その場で左足が千切れてしまいました。それから芋虫のように生きてきました。10代になったとき、母に「なぜあの戦争に反対してくれなかったの、戦争さえなかったらこんなつらい目にあうこともなかったのに」と責めては亡き母を困らせました。この裁判を起こしてから、私はその頃をよく思い出します。そして「なぜ立ち上がってくれなかったの」という少女の叫びは、いま私たち自身に向けられているのだと思っています。

 国が私たち空襲被災者に何ら援護措置をとらず、放置してきた最大の根拠は、「戦争で受けた損害を国民は等しく受忍しなければならない」という戦争被害受忍論です。もし私たちが、このまま我慢とあきらめの人生を受け入れたまま死んでしまえば、同じ歴史が繰り返されることになります。子や孫たちの世代にまでも「あなたのおばあさんは、戦争被害を受忍したんだよ。あなたたちもガマンしなさい」と国に言わせることがあってはなりません。

 日本を取り巻く内外の情勢がさまざまに厳しい今、私たちは10年、20年先の子や孫たちの未来が気になります。だからこそ、戦時戦後を生きてきた私たちが戦争被害受忍論を打ち破り、奪われてきた人権を取り戻し、本当の民主主義を子や孫の世代に手渡したいのです。それが私たちのこの裁判を続ける一番の原動力であり「遺言」です。空襲訴訟、そして国に差別なき戦後補償を求めるたたかいはこの国の、この世界の未来を築くたたかいだと確信しています。

 私はここ数日、奪われた足の付け根と体中の痛みに見舞われ、今日のつどいに参加できるか心配していました。会場にたどり着いて、皆さまの支えがあるかぎり、ダウンしたり弱音を吐いたりしながらも頑張れる気がしました。

 今日はお越しいただきまして、本当にありがとうございました。

『憲法九条だより』No. 13(2011年1月1日)から

戦争体験を語る

旧朝鮮で経験した敗戦と帰国の苦難

鳳東町 藤田 均さん


 自分は朝鮮(当時)で生まれ育ちました。父は北海道、母は福岡出身ですが、平壌の西南、大同江という内海に面した町、兼二浦(現在の松林市)で昭和10年4月、5人兄弟の3番目としてこの世に生を受けました。

 兼二浦は日本製鉄(後の八幡製鉄)の町で6千人の日本人が暮らしていました。父は社員でしたが、昭和15年病死の後、母が働くようになり、ずっと社宅に住んでいました。町は怖いことも無く、表向きは平和でしたが、日本人が悪いことをしており、朝鮮人は抵抗もせずジッと辛抱していることは、自分のような子どもにも分かりました。例えば、日本人の奥さんがリンゴの入った籠を頭にのせて売っている朝鮮女性の足を引っ掛けて倒し、転がっているリンゴを笑いながら持ち帰るのを見かけたことがありました。

 終戦の日ですが、油をとるための松の根を持って校門に入ったら、校庭で玉音放送が始まるところでした。整列して聞きましたが、雑音で校長先生も内容が分からなかったようです。1~2時間後に日本が戦争に負けたと知りました。社宅は何時もどおり平静でした。間もなく、日本の神社が燃やされたり、朝鮮人の戦勝行列が近くを通ったりしましたが、日本人が危害を加えられることはありませんでした。

 8月30日頃「2~3日で帰らせるから身の回りのものを持って集まれ」と、刑務所跡らしい施設に連れていかれ、翌四月まで8ヵ月隔離されました。4畳半程度の部屋に兄弟5人と母と叔父と祖母の9人が入れられましたが、まだよい方でした。出入り口は北朝鮮保安隊が見張っていましたが、施設内は自由で、身の危険を感じることはありませんでした。食べ物はサツマイモ一切れや、固いとうもろこしでした。寒いし何もすること無いしお腹はすくし、辛い期間でした。ここでは栄養失調で亡くなったり、女の子が目が見えなくなったり、男の子が歩けなかったり、発疹チフスが発生したり、弱いものから食べ物を取り上げるなど悲惨なことを見たり聞いたりしました。

 氷が溶け出した頃、集団で夜中に船や汽車での脱出が始まりました。たまに失敗して連れもどされたところも見かけました。自分は北朝鮮保安隊から帰国許可を得た病人部隊に、盲目の叔父叔母と加わりました。20歳の叔父が隊長になりました。母や兄弟は2日前の夜、船で脱出していました。自分には何も告げていませんでした。無事に日本へ帰れるか、再び親子が出会えるか分からない中、母なりに考えた辛い決断だったのでしょう。


 4月10日「兼二浦駅」から汽車に乗り、「黄海黄州駅」で降りて宿に泊り、保安隊の臨検を受けました。翌朝再び汽車に乗り、38度線近くの「海州駅」に向かいました。駅に止まるたびに隊長の叔父が駅員に包みを渡すのを窓から見ていました。受けとらなくても「気をつけて!」という駅員さんもいれば、受け取っても悪態つく駅員さんもいました。叔父はどんな人にもぺこぺこと頭を下げ続けていました。「海州駅」にロシア軍がいるからと、二つ手前の駅に降り、小さい家で40人が座ったまま寝ました。

 この民家は38度線のわずか北に位置し、翌日から国境を越える苦しみが始まりました。明るくなって出発。ぬかるみの赤土農道を病人は荷車で。途中から雨で、さらにヒョウが混じり、リュックの芯までボトボトになっても歩き続けました。寒かった記憶はありません。それほど緊張していたのだと思います。40人の列もバラバラになり、立ち止まったり引き返したり…。夕方になってやっと一軒の農家に全員揃いました。区切りはなかったですが、どうやらこの民家は国境線の中だったようです。翌日もロシア軍と北朝鮮保安隊に見つからぬよう、農道を歩き続けました。

 2日間歩いて南鮮の「泉決駅」(多分)に着き、有蓋貨車に詰め込まれ、2日間ほどかかって「ソウル駅」に着きました。4月15日と記憶しています。南鮮でも食べ物はなくコーリャン、キビ、大豆が少し入ったお粥が大人子どもの区別なく配られました。誰一人苦情も言わず、トラブルも無く、静かに行動していました。「日本へ帰りたい」、「日本は戦争に負けたのだからおとなしくしないといかん」と不安に思っていましたが、朝鮮人から嫌がらせをされたことはありませんでした。

 「ソウル駅」から有蓋貨車に乗せられ、40人揃って「釜山駅」へ着きました。そこで偶然母と再会できました。引き上げ船で福岡に上陸したのが昭和21年4月18日。朝鮮にいるとき「日本は美しい国だ」としつこく言われていました。上陸して生まれて初めて見た日本は、一面焼け野原で美しくはありませんでした。(元自治会長)

(聞き手と写真=小倉)
『憲法九条だより』No. 13(2011年1月1日)から

2011年1月16日日曜日

愛が深まる月


        鳳東町・浅井千代子

読書会で
八月課題図書
林京子の「祭りの場」を読んだ
著者は六十五年前の
長崎原爆の被爆者
自らの体験を書き
原爆文学の代表作の一つ
今も読みつがれている

一九四五年八月九日
その日アメリカ軍二つ目の原爆投下
立ち昇り天を覆ったキノコ雲
太陽はもとより
地上に存在するあらゆるものを溶かし
人類はじまって以来の
この世の果てを実験した
放射能の恐ろしさ
原爆症の恐怖は
半世紀以上経た今も
命を破壊しつづけ
見えぬ悪魔の影は子子孫孫にまで及ぶ

頁を繰りながら
幾度目を閉じ
本を胸に抱きしめたことか
しみじみ
今日あるすべての命を
いとしいと思う

アメリカの核の傘など論外
世界に反核を軸とした平和こそ…

益々平和憲法九条の存在が
重要になってきた
八月は
九条への愛が更に深まる月

『憲法九条だより』No. 13(2011年1月1日)から

[お知らせ]
九条署名:当会の当面の目標=3,000筆、現在=2,500筆(堺市合計=116,388筆)

『憲法九条だより』No. 13 の他の記事:
(タイトルをクリックすると別ウィンドウに開きます)

2011年1月2日日曜日

2011年の初めにあたって


 今年の干支はウサギです。私が最近ウォーキングをする際に愛唱している歌の一つ、高野辰之・作詞、岡野貞一・作曲の「故郷」は、「兎追いし かの山、小鮒釣りし かの川」という歌詞で始まります。利潤ばかりを追求する乱開発のせいで、この歌詞にあるような自然が方々で失われて来ています。私たちは、人間の営みと自然の豊かさの調和を大切にする世の中をこそ、望まなければなりません。そして、乱開発以外の、これらを破壊する原因となるものとして、ぜひ避けなければならないことがあります。それは戦争です。

 昨年は近隣の国ぐにに不穏な動きがありました。そのような動きを制するため、わが国は日米安保条約の堅持だけでなく、憲法9条を変えて強大な軍事力を持つべきだとの考え方が、またまた頭をもたげています。しかし、国家間の問題の本当の解決は、外交手段で行なうべきであり、また、それによってしか真の解決が得られないことを、これまでの歴史が示しています。

 第2次世界大戦後の主な戦争は、いわば国内の戦争にアメリカが自国の目論みで参戦して不首尾だったり(朝鮮戦争、ベトナム戦争)、アメリカがテロに対する報復として、また、不確かな情報をもとにして戦争をしかけたり(アフガン侵攻、イラク戦争)したものです。つまり、大国同士あるいは領土の占有を目的とする戦争はなくなって来ており、これは「国際紛争の解決は外交手段で」との機運が、世界の常識になりつつあることの反映です。それにもかかわらず、アメリカだけがいつまでも軍事力に頼っており、日本の政府はそれに盲従しようとしているのです。

 昨年末には、日米合同の防衛演習のニュースが、映像を伴って何度かテレビで放映されました。その映像は、私のような戦争を知る世代の目には、空恐ろしい光景に映りました。軍事力を示して近隣の国ぐにを脅そうというのは、むしろ逆効果で、先方もますます軍事力の強化に走るだけでしょう。

 国連のパンギムン事務総長は昨年七月、広島で開かれた「核廃絶広島会議」へ贈ったメッセージの中で、核兵器が安全保障に役立つという「核抑止力」の考えは「幻想だ」と批判し、「安全を保証し、核兵器の使用から逃れる唯一の方法は、核兵器を廃絶することだ」と訴えました。核兵器にせよ、沖縄の米軍にしろ、憲法九条を変えようという動きにせよ、軍事力の保有あるいは強化は軍拡競争をあおるだけであり、それが戦争抑止に役立つとの考えは、パンギムン氏のいう通り、幻想に過ぎません。憲法九条こそが真の抑止力なのです。私たちはこのことを肝に銘じて、憲法九条を守り生かす運動をしっかりと進めて行こうではありませんか。

福泉・鳳「憲法9条の会」呼びかけ人代表 多幡 達夫
『憲法九条だより』No. 13(2011年1月1日)から