2007年6月1日金曜日

改憲手続き法案の採決強行に抗議

憲法を守る多数派を作るためにがんばろう!

 改憲手続き法案が5月14日に参議院本会議で自民・公明の賛成で可決し成立しました。国民の声を聴く中央公聴会ぬきの採決に反対していた民主党が、どたん場になって密室の談合で採決に合意した責任も問われます。

 国の最高法規・憲法の改正については、国民の声を聞き十分時間をかけて論議すべきだという最低のルールも踏みにじり、与党の中からも拙速審議をいましめる声が出ていた中での暴挙です。そこまでしても憲法九条をかえ、アメリカとともに海外で戦争をする国づくりをめざす安倍首相の野望や焦りがはっきりとしてきました。

 世論調査ではここ数年、憲法改定派が減少し、九条支持派が増加しています。また、約8割の人が「憲法九条は日本の平和のために役立ってきた」と答えています。こうした国民の意識の変化は、全国の九条の会や、地域での私たちの草の根の活動が原動力になっていることによるのだと、改めて確信をもつものです。

 日本の憲法九条は世界からも「平和の宝」と見られています。二度と戦争をしない、戦力を持たないと誓って定められた憲法九条を守り、子や孫の世代に平和を手渡していくことが私たちの願いであり務めだと思います。

 改憲発議を許さず、思想・宗教・支持政党を超えた国民過半数を目ざして、「九条守ろう」の声を広げていきましょう。(事務局長・上田)

 [『憲法九条だより』第4号(2007年6月1日)から]

2007年3月1日木曜日

戦争体験

二度と同じことを繰り返さないで欲しい
鳳南町・安野輝子さん

 私が6歳のときでした。1945年7月16日午後1時頃。川内市(現・薩摩仙台市)の自宅で弟やいとことあそんでいる時の空襲でした。警報が鳴り、部屋でじっとしていると,爆弾が自宅近くに落ちました。気がつくと周りは血の海。血は私のものでした。なぜか痛みは感じませんでしたが、怖くてみんなで泣いていました。爆弾の破片が左足の膝から先を削りとりました。病院に運ばれ死線をさまようこと数日間。ガラスのビンの中で浮いていた切断された自分の足を忘れることはできません。当時、足は切れても、トカゲの尻尾のように生えてくると信じていました。

 間もなく終戦。米軍機のごう音におびえなくてすむ喜びはありました。でも、足は生えてきませんでした。空襲で家を失い、過疎地での困窮生活が始まりました。2歳の弟は栄養失調で亡くなりました。私も栄養不良で、足の治療も進まず、つえや義足を買うこともできず、外で遊ぶこともできず、学校では運動会にも参加できず、雨がふると学校を休み…、勉強にもついていけず、孤独な毎日でした。16歳のとき、母親の故郷である大阪にきました。手に職をつけ自立をと考えて、洋裁を学びました。その後、義足であることを隠して就職した会社は、2年後に倒産。友人と洋服の注文を受ける仕事を始めます。

 あるとき、母親に問いかけました。「なぜ戦争に反対しなかったの? 戦争さえなかったら、こんなつらいめにあうことはなかったのに…。」母は悲しそうに答えました。「気がつくと戦争は始まっていたの。どうしようもなかった。」この意味が本当に分かったのは、4年前イラクに自衛隊が派遣されたことからです。アメリカについていくと戦争に巻き込まれる不安が高まっていました。国が戦争をすれば、私のように傷つく人が出る。だから戦争を起こしてはならない、戦争放棄の憲法九条は絶対に守らなければならない、と母はいいたかったに違いありません。

 現在私は空襲被害者たちと「戦災障害者の会」をつくり、戦争で傷ついた民間人の補償を国に求め、二度と同じことを繰り返さないで欲しいと訴えています。

[『憲法九条だより』第3号(2007年3月1日)から]