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2013年7月27日土曜日

いまよく読まれているブログ記事「96歳の遺言」


 大正6(1917)年生まれで、いま満96歳、目は見えないし、耳もひどく遠いけれど、アパートで一人暮らしをしている女性「おけいさん」が、たまたま病院で「八十歳代万歳!」というブログの著者「hisako-baaba さん」と友だちになりました。そして、おけいさんは hisako-baaba さんに、戦争で苦しんだ時期を中心に身の上話を語り、hisako-baaba さんはそれをていねいに記録して、「96歳の遺言——おけいさんから聞き書きした話」というブログ記事が出来上がりました。

 「語り部」をしている hisako-baaba さんは、「目で読む文章でなく、声に出して読む文章になっており、朗読に活用して感想を寄せられたら、いちいち、おけいさんに報告します」と、「96歳の遺言の解説」で述べています。掲載直後からたいへん多くのアクセスがあり、「96歳の遺言」あとがきによれば、3日の間に5000人ほどの人が読みに来たそうです。また、電子絵本にするという話も持ち上がっています。

 「96歳の遺言」は、
私の大事な孫や曽孫たちへ。
これはおばあちゃんの、「戦争だけは絶対やっちゃダメ」という遺言です。
たった一枚の赤紙(徴兵命令書)で人生を狂わされて、戦争が終わって、もっとひどくなった生活との戦いを、一人で戦わされたおばあちゃんの、「戦争だけはやっちゃダメ」という、叫びです。
という前置きで始まっています。戦争を記憶する人たちが減って行く中で、戦争体験のない人たちにぜひ知ってもらいたい貴重な話です。

 上記のリンクをクリックして、多くの方々が読み、活用されることを期待しています。

多幡記

2012年12月11日火曜日

私の戦時体験:戦中戦後を思い出すままに

多幡貞子(上在住)

 自宅から徒歩で十分ほどの豊中市立克明小学校(当時の明徳国民学校)に私は通学していましたが、校庭の西北隅にあった奉安殿の壁が、やけに白かった覚えがあります。登下校のとき、「御真影」と教育勅語を納めたこの奉安殿に向って、ていねいに一礼することを厳しく申し渡されていました。四年生のときの担任の女教師は、いつも竹の棒を振りまわし、ヒステリックに児童の机を叩きまわっていました。先生のいわれるまま、「何で?」と聞き返すこともできなくて、おびえ、小さくなっていました。

 大阪工業試験所で合成ゴムの研究に従事していた父は、職場では軍から研究成果を急がされ徹夜の実験をして、家庭ではいつも不機嫌でした。大人は皆、子どもにやさしく接するような時代ではありませんでした。子どもは、目上の人への口答えはご法度で、絶対服従させられていました。

 戦局が不利になると、警戒警報のサイレンがたびたび鳴り響くようになり、学校から一目散に駈け戻り、地下防空壕に飛び込む日が多くなりました。夜もモンペ姿のまま眠り、警報と同時に枕元の防空頭巾をかぶり、ねぼけまなこで、親に叱られながら、暗くて湿っぽい土の匂いのしている壕に避難するのです。やがて、空襲警報の出る前に、B29 が編隊を組んでやってくる爆音がするようになり、爆弾投下の音がし始めると、もう生きた心地はしません。B29 が早く飛び去ることを祈るばかりの恐ろしい日々が続きます。

 私たちの小学校では、集団疎開はありませんでしたが、個人的に親類を頼って疎開する子どもはいました。同じクラスの一人の男子が奈良に疎開し、暑い日に窓際にいたところを、突然低空飛行して来た敵機に狙撃されて即死しました。終戦まであと数日のことでした。私の父は、戦時研究員ということで、出征をまぬがれたし、伯父たちも皆、復員してきたので、身近に「死」の体験がありませんでした。したがって、この同級生の死は、私にとって大きなショックで、F 君という名前をいまも忘れることができません。疎開しなければ、彼はいまも元気だったかもしれません。

 私の家から数十メートルと離れない塚にも、一トン爆弾が落ちてきましたが、周辺の人家に大きな被害がなかったのは幸いでした。終戦までの二ヵ月間に、豊中全体に六回の空襲があり、約千五百人の死者・行方不明者が出たと聞きました。いつのときにも、運・不運というのがあるのでしょう。

 終戦の日、学校へ行ってみると、あの厳しい女教師が職員室で泣いていたので、たいへん驚きました。ともかく、警報にびくびくしなくてもよくなり、また、夜は明るい電灯のもとで過ごせることを本当に嬉しいと思いました。食生活は相変わらず貧しいものでしたが、先生と学童、大人と子どもの間に自由な話し合いや笑いが生まれました。学校は活気と明るさに満ち、戦争のない生活とは、こんなに楽しい、すばらしいものかと感動したのでした。

 [大学の出身学科同期生有志による文集『戦時下の少女たち』(1998年)から]

2012年1月28日土曜日

私の戦時体験 1:国民学校

多幡達夫 

 私自身のささやかな戦時体験について、何回かにわたって述べたいと思います。私が生まれたのは1935(昭和10)年4月です。日本の歴史をひもといてみますと、この年には「天皇機関説事件」がありました。「天皇機関説」とは、自由主義的な憲法学者・美濃部達吉の学説で、「統治権は国家に属し、天皇は国家統治の主体ではなく、国の最高機関として統治権を行使するもの」として、天皇に絶対的な権限を与えることを否定したものです。

 これは公認の憲法論として、政府要人にも支持されていたのですが、軍部・右翼が機関説撲滅同盟を作って、政友会という政党も巻き込み、政府に天皇機関説否定を迫りました。その結果、政府は二回にわたって「国体明徴の声明」を出し、美濃部は公職から追われることになりました。そして、日本の思想・教育界は教育勅語と「天壌無窮*」の神話に基づく国体観を基準とする超国家主義に支配されて行くのです**。

* 「天壌無窮」とは、天地とともにきわまりなく、永遠に続くという意味で、天皇の神格化に使われた言葉です。
** 以上の歴史は加藤文三・他『日本歴史 下』改訂版(新日本新書, 1978)を参考にしました。


 私が生まれたのは石川県の金沢市でした。父は旧制中学校の教員でしたが、私が四、五歳の頃、病気がちになり、通勤その他において勤務の比較的楽な、同じ県内の七尾市にあった中学校へ転勤させて貰いました。したがって、私は1942年に七尾市で小学校に入学しました。それは、太平洋戦争開始の翌年です。前年に発布・施行された「国民学校令」に基づいて、小学校でなく、国民学校と呼ばれるようになっていました。

 校門を入ると、天皇と皇后の写真(御真影)と教育勅語を納めた奉安殿という建物があり、まず、その前で最敬礼をしてから校舎に入らなければなりませんでした。祝祭日に学校で行われる儀式では、校長が教育勅語を「奉読」(朗読)することが小学校令で決められたいました。そこで、私たちは祝祭日のたびに、講堂に整列して、「直立不動の姿勢」で教育勅語に聞き入りました。

 体育の時間だけでなく、講堂に集まるときでも、児童は軍隊式の号令のもとに、整然と行動しなければなりませんでした。講堂での儀式や朝礼の際に、児童は学級ごとに男女各々が縦一列になって並びます。男子の列の先頭には級長が、女子の列の前には女子の副級長が立って、まず後ろを向き(このときにも軍隊式の「回れ右」の方式で向きを変えなければなりません)、それぞれの列の児童の間隔、列の真っすぐさを、「気をつけ!」「前へならえ!」などの号令で正します。級長や副級長は、途中の誰かのところで列が歪んでいるのを見つけると、その児童の名を呼んで注意します。

 1年生の1学期には、級長、副級長がまだ決まっていませんでしたから、学級担任がその役をしていたと思います。私は1年の2学期に早速担任から級長に任命され、講堂でそうした号令を掛けなければなりませんでしたが、それはやや苦手でした。その頃から私は近視になりかけていたので、列の歪みが後ろの方で起こっているのを見ても、注意すべき児童が誰か分かり難かったというのが原因だったと思います。

 運動会(いまの体育祭のこと)のときにも、軍隊式の行進をしました。運動場の正面中央の指揮台の上には校長が立っていたのでしょうか。その前を通るときに、級長は「頭(かしら)右!」の号令をかけて、後続の同級児童全員の頭を指揮台の方に向かせ、壇上に敬意を表させました。

(つづく)