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2013年12月13日金曜日

本会主催第7回学習会「オスプレイが配備された沖縄から 日本の平和を考える」への感想


 元宜野湾市長・伊波洋一さんを招いて、2013年11月10日に開催した学習会「オスプレイが配備された沖縄から 日本の平和を考える」(こちらに速報記事)には、雨の中、約90名の参加があり、会場で配布した感想用紙を使って、たくさんの感想が寄せられました。その一部をここに紹介します。

 (1) 沖縄の現状がよくわかりました。核抑止力のために日本政府は米軍基地を置いているだけと思っていたがそうではないのだ。

 (2) きょう、伊波さんのお話を聞けて本当によかった。また続きを聞きたいです。すごくわかりやすかったです。

 (3) 2006年から福泉・鳳憲法9条の会が発足されて、世話人の方々が毎月会議を開かれ、毎月9の日宣伝を地域に深く根ざして行われているのは、すばらしいことだと深く感銘いたしております。さらに、『9条だより』には戦争体験等々が連載されていつも楽しみにして読んでいます。戦争反対、思想信条をこえて、人間として「[戦争は]だめだ」と、その実体験から一人ひとりの思いが心に伝わってきます。学習会に参加する中で、日頃忘れていた9条の大切さを深く考えさせられています。きょうの伊波さんのお話の中で、[面積が]日本の0.6%の沖縄に、在日米軍専用基地の74%がおしつけられているのは、本当に許せないと思いました。

 (4) 沖縄のおかれている状況、日本政府の対応のひどさ、すごくよくわかりました。沖縄の問題は日本全体の問題。絶対に基地はいらないと、あらためて思いました。すばらしい講演ありがとうございました。

 (5) 沖縄の方々の70年間の御辛苦に、内地に住むものとして申し訳ない気持ちで一杯です。いよいよ戦争の気配が濃厚になってきました。あの戦争後の70年の平和はどうなりましょうか? 一重に平和憲法に守られてきましたのに…。先の大戦に戦場で戦ったものとして反戦平和の戦争語り部になる以外、自分に何もできないのが残念です(89歳男性)。

 (6) 伊波さんのとつとつとした口調の中に、沖縄に対する熱い思いと日本の平和を守ろうという強い意思が伝わってきました。伊波さんの気さくなお人柄にも惹かれました。

『憲法九条だより』第22号(2013年12月10日)から

2013年12月12日木曜日

戦争への道をねらう秘密保護法:本会機関紙『憲法九条だより』第22号


 年に2、3回発行して会の支持者の方々に配布したり、「憲法9条を守ろう」の9の日宣伝・署名活動の際に利用したりして来た本会機関紙『憲法九条だより』を、今年は4回発行し、号数が22に達しました。12月10日付け今号のトップ記事「戦争への道をねらう秘密保護法」を以下に転載して紹介します。その他の記事も、順次、本ブログで紹介する予定です。



戦争への道をねらう秘密保護法

 「防衛」「外交」「特定有害活動の防止」「テロリズムの防止」の4分野について、国が一方的に「特定秘密」に指定し、これをもらしたり、もらすことをそそのかしたりすると、懲役10年以下という厳罰を与える「特定秘密保護法」。秘密を取り扱う人はプライバシーを調査されます。調査範囲は家族や友人にまで広がります。「秘密は戦争の始まり」は歴史の教訓です。

 『朝日新聞』の連載「異議あり 特定秘密保護法案」の3回目(11月24日付け)に、東京大名誉教授で96条の会代表の樋口陽一さんが登場し、「3・11の原発災害で私たちは『原発は安全』という神話にだまされていたことを知った。今後、政府のうそにだまされず、主権者として公のことがらの基本を動かし、未来への責任を果たすため、国民には問題の所在を『知る義務』がある。それを邪魔するのが、今回の特定秘密保護法案」と語っています。これに先立つ氏の冒頭の言葉には、「国民主権の憲法となり、国民自身が政治を動かす立場にある今こそ私たちには『だまされない責任』があると言いたい」ともあります。この言葉はいま、私たちがこぞって、危険な特定秘密保護法案に反対しなければならないという、氏の痛切な思いを表したものではないでしょうか。[転載時の注:この段落は本ブログの11月24日付け記事を利用しています。]

 『毎日新聞』(11月30日付け)は、森雅子特定秘密保護法案担当相の答弁がぶれている状況を報じ、拙速審議を批判していました。おなじく『毎日新聞』の連載「特定秘密保護法案に言いたい」(12月1日付け)で、精神科医の香山リカさんは、「内容や範囲が不明確な『秘密』という言葉が一人歩きし、『国にとって都合の悪いことを知ろうとしたり、話したりするだけでやばい』という雰囲気だけが広まって、国民の心理が自動的に萎縮してしまうのではないか、(中略)最終的にだれもものを言わなくなる。そうした『沈黙のらせん』がもっともこわい」と発言しています。

 このような特定秘密保護法案が強行採決で可決されたことに断固抗議します。私たちは戦争への道を許すことはできません。あらゆる場面で反対の声をあげていきましょう。[転載時の注:この記事は法案の参議院での採決以前に準備したものだったので、見出しの一部と本文の最終段落を、急きょ変更して印刷する運びとなりました。]



 付記:2013年12月11日付け朝日新聞の「どうする? 秘密法」欄において、憲法研究者で「九条の会」呼びかけ人の一人の奥平康弘さんは、1952年に成立した破壊活動防止法(破防法)の本来の狙いが団体規制だったにもかかわらず、戦前の特高警察が再現されるのではと危険を感じた労働組合や学術団体、野党が強く反対した結果、この規制が一度も適用されていないことについてふれています。そして、「今回の[特定秘密保護法への]反対の声も法律乱用の歯止めになると思います。同時に絶えず監視していくことが必要です。公務員や記者らが秘密漏洩(ろうえい)罪に問われたとき、知る権利を保障する憲法21条に反するとして司法の場で論陣を張れるはずです」と述べています。私たちは、この奥平さんの言葉に勇気づけられて、秘密保護法廃止の運動をぜひ続けて行かなければなりません。(多幡)

2013年9月9日月曜日

武力で平和は築けない:「集団的自衛権」行使容認の危険な企て



憲法を生かして世界の平和に貢献することこそ
日本が進むべき道


本会世話人 井﨑 孝子

 戦争放棄と戦力不保持を掲げた憲法9条を変え、日本を再び「海外で戦争する国」に作りかえようとする安倍政権。その一歩として、歴代政権が「憲法上できない」としてきた集団的自衛権の行使を、年内にも可能にしようとしています。

 集団的自衛権とは何なのでしょうか。

 それは、日本が攻撃されていなくても他国が起こす戦争に自衛隊も参戦できるという内容です。

 「集団的自衛権の行使」と主張された主な軍事行動には、
  • 1956年 旧ソ連によるハンガリー軍事介入
  • 1958年 アメリカによるレバノン軍事介入
  • 1958年 イギリスによるヨルダン軍事介入
  • 1964~75年 アメリカによるベトナム戦争
  • 1979年 旧ソ連によるアフガニスタン戦争
  • 1990~91年 イラクのクゥェート侵攻に対する湾岸戦争
などがあります。

 安倍首相が8月はじめ、憲法解釈を担当する内閣法制局長官を交代させ、「集団的自衛権」行使容認派といわれる小松一郎氏を長官に据えたのは、行使の容認に踏み出す布石です。安倍政権の危険な企てをやめさせることが大切です。

 世界でもいま、戦争ではなく平和的、外交的努力で問題を解決することが流れです。

 憲法を生かしてアジアと世界の平和に貢献する道こそ日本が進むべき道ではないでしょうか。

(上 在住。絵手紙も井崎さんの筆)

『憲法九条だより』第21号(2013年9月3日)から

2013年9月8日日曜日

原水禁世界大会に参加して:村上弦大さん


ぼくらは微力でも無力ではない

村上 弦大

 皆様には、カンパなど活動していただき、ありがとうございます。長崎の原水禁世界大会に参加して、とても充実した3日間をおくることができました。

 その中でも、ぼくの印象に一番残っていることは、オリバーストーン監督らの存在です。アメリカの中にも核に反対する人がいるということ、その人たちと交流することで、実際に考えさせられることが多くありました。

 また、韓国をはじめ、多くの外国の方も来られ、核の根絶を訴えていました。日本だけでなく、このように多くの国が行動を起こせば、次回のニューヨーク会議、その次の会議ぐらいには、核が完全に地球からなくなるのではないかと思います。

 その他に、開会の式の言葉に「行動せずして、変化はありえません。ひとりひとりが地元に帰り、何か一つでも行動を起こしてください」というのがありました。ぼくらは微力ではありますが、無力ではありません。何か少しでも行動を起こさないといけないな、と感じました。

(鳳南町 タンポポ薬局・薬剤師)

『憲法九条だより』第21号(2013年9月3日)から

2013年4月18日木曜日

戦争体験を語る:泉谷ミサノさん(1)

「死ぬんだったら家族と一緒に…」


泉谷ミサノさん(鳳東町)

女子はぺんぺん草

 私は大正14年9月20日、大阪市浪速区で4人姉妹の長女として生まれました。父は能登半島の輪島と穴水の中間あたりの片田舎、「与呂見」村の農家に生まれました。農家の女の子は「ぺんぺん草」という屋根に生える草にたとえられ嫁に行かなくてももどってきても養ってやるが、長男以外の男兄弟は「木っ葉」といって何一つ与えずに追い出される風習がありました。それで次男坊の父は大阪に出てきて運送業をしていました。といっても車ではなく馬車でやっていました。

 母は奈良県大和の田舎、柳生出身でした。両親とも穏やかでどこから見ても普通の家庭で、私は気ままにのびのびと育てられていました。近所には子どもが多く8人兄弟もめずらしくありませんでした。だから遊ぶ相手には事欠かず、お稲荷さんに行ってかくれんぼをしたり、ドッジボールをしたり、ハイキングに行ったり、よく遊びました。あの時代不良などする人はいませんでした。

勤労奉仕

 大阪市立立葉高等女学校に入学してからは、神武天皇から始まる天皇の名前を暗唱させられたり、薙刀(なぎなた)の練習をしたり、勤労奉仕として出征兵士の家に稲刈りの手伝いに行ったり、学校で兵隊さんの服などミシンかけをやったり、森ノ宮の砲兵工廠で軍刀や短刀を入れる革サック磨きは一日中外に出られず疲れたけど、ずっとでもなく苦しい辛いと思ったことはありませんでした。

栄養失調

 私はそろばんが得意で仕事ではずいぶんと得をしました。今でも買物をするときは暗算をしており、頭の老化防止にもいいようです。当時の給料は月30円弱、ボーナスは100円で結構よかったと思います。それで心斎橋をぶらついたり、買い物をしたり、宝塚やOSKを見に行ったり、気楽に遊んでいました。

 やがて戦況が厳しくなってきて、繊維業界は平和産業といわれ肩身が狭くなり、勤め先は店を閉めてしまいました。やむなく今度は日本通運に就職しました。その頃ものは不足しており、食べ物も配給制度になっていました。それでただでも食料が少ないうえに、私は好き嫌いをしていたことがたたって、事務所で倒れてしまいました。栄養失調と診断されました。それで日本通運も辞めてしまいました。療養を兼ねて一人で大和の柳生に疎開しました。大きな広い家には祖母が一人で暮らしており喜んでくれました。

空襲で丸焼け

 私が大和にいた昭和20年3月、大阪空襲で難波あたりがやられたとき、私の家も丸焼けになりました。両親と妹3人は奇跡的に無事でしたが、何もかも焼けてしまいました。私が大和に持って行ってた少しの写真以外はすべて焼かれ残っていません。小学校の同級生も多く犠牲になりました。生きていても名簿も焼けて連絡も取れなくなりました。だから同窓会はずっとありませんでした。その後何とか連絡がつき初めてやったのが60歳の時で、集まったのも10人だけでした。その中で今も生きているのは私と、小浜と福島にいる2人だけです。

能登の寺へ疎開

 空襲で焼け出された家族5人は住む家も無くなり、疎開をすることになりました。あてもなく父の故郷に向かい、石川県穴水と輪島の中間あたりの能登三井駅(2001年に廃線となり今はない)駅前の寺(記憶では徳成寺と思う)の本堂の片隅に布団をひき寝させてもらいました。お寺さんにとっては迷惑なことは分かっていましたが、行くところもなく仕方なく暮らしていました。

 その頃大和にいた私は激しさを増してくる空襲の話をあちらこちらで耳にしていたので、死ぬんだったら家族と一緒に死にたいと考え、祖母に引き止められたけど、家族のいるその寺へ行き、一緒に生活を始めました。この寺で終戦をむかえましたが、家族のくらしは更にたいへんになりました。(次号に続く)

(インタビュー、小倉・荒川、2012年5月22日)

『憲法九条だより』第20号(2013年4月1日)から

[「戦争体験を語る:泉谷ミサノさん (2)」はこちら

2013年4月11日木曜日

3・17 春の憲法学習講座に参加して

「政権交替でどうなる憲法、どうする憲法」
名古屋大学名誉教授・森英樹氏の講演から

本会事務局長 上田規美子

 会場いっぱいの約270人が参加し、熱気が感じられました。「昨年の総選挙で自民党が圧勝したが、これは議席上のことで、小選挙区制の効果であり、恐れるに足りない、けれども、多数議席を得た安倍政権は、『憲法改正』に向けての動きを強めてくる」として自民党の「憲法改正草案」について、現行の日本国憲法と比較して話を進められました。

 特に前文は、現行憲法の全文を破棄し、「国と郷土を誇りと気概を持って自ら守り、基本的人権を尊重するとともに和を尊び、家族や社会全体が互いに助け合って国家を形成する」ということが強調されています。天皇については日本国の元首であると明確に規定しています。

 第9条は1項の戦争の放棄は残しながらも、2項の「陸海空軍その他の戦力はこれを保持しない。国の交戦権はこれを認めない」が削除され、内閣総理大臣を最高指揮官とする「国防軍」が新たにつけ加えられました。また、緊急事態に対応するために第9章が新たに設けられ、緊急事態措置への国民の服従が強制されるものになっています。

 9条改憲派が圧勝し、日本維新の会という自民党より右の改憲政党が登場したことで、自民党の方がマシではないかという見方も出てきているということです。安倍首相は公明党よりむしろ維新との絆が強いけれども、維新の会は海外では「王政復古」と受けとめられています。

 安倍首相は7月21日投票の参議院選挙までは「安倍カラー」を出さずにいますが、「9条改正」をしやすくするために、まずは「96条改正」をするというのが本音です。3月7日には「96条改正をめざす議員連盟」が活動を再開し、民主党、維新の会、みんなの党の有志議員が勉強会をはじめたと報告されています。そして、安倍内閣では、9条があるために規制してきた「武器輸出三原則」を事実上撤廃し、集団的自衛権の行使に踏み出そうとしているのです。

 けれども、国会内と世論のずれは深く、朝日新聞の今年一月末の世論調査で「憲法改正」反対は5割を超えています。また、日本の改憲の動きにアジアや世界から警戒の声も高まっています。今後は、改憲手続きを定めた96条「改正」が焦点になっていきます。その狙いが9条の改定にあると指摘するだけではこの動きを押し返すことは出来ません。実態をあばくことと、それは私たちの生活をどうすることなのか具体的に知らせていくことが重要だ、と話されました。

 わたしたち福泉・鳳地域憲法九条の会も、引き続き宣伝と署名活動を強めて、9条を守る世論作りに頑張ります。





井崎孝子(本会世話人)

記事、絵手紙の挿絵ともに『憲法九条だより』第20号(2013年4月1日)から

2013年2月6日水曜日

戦争体験を語る:岩津恭子さん

「何十年たっても忘れられません」
鳳中町・岩津恭子さん
 この記事は、2010年5月11日付けで本会第2ブログサイトに掲載したものの転載です。(第2ブログサイトは、転載済みの記事から消去し、いずれ廃止する予定です。)

 学徒動員を終えた私が、昭和20年3月、女学校を卒業して、大阪市立の女学校の事務員として勤めた頃です。空襲警報が鳴りますと、重要書類箱を抱えて防空壕へ走りこむのが日課でした。その箱の中には天皇の「御真影」も入っていました。その日も、いつものように警報のサイレンが鳴り、防空壕へ走りこんだとき、背後でバシビシッと大きな音がはじけたのです。振り返ると、後ろから走りこんできた二人の生徒の背中に弾が命中して倒れたところでした。

 思わず私は息をのみ、空を見上げると、何と飛行機がすぐそこにきており、操縦士の顔が一瞬見えました。その顔はウサギを追う猟師のようで、心地よさそうにニヤリと笑っていたのです。武器も持たずに逃げている子どもを何で殺すのでしょうか! 弱冠十六歳だった私はぶるぶると怒りに震え、天を仰ぎ神を呪いました。戦争は人間をこれほど狂わせるのでしょうか!

 いのちを生み育てる母親として、このようなことは絶対に許せません。戦争が終わって一時は、生き残った安堵感と希望を感じましたが、罪もないあの女学生を殺したこの戦争を、何十年たっても絶対忘れることはできません。この悲惨な歴史の事実とわれわれ高齢者の貴重な体験を、戦争を知らない世代の若者に必ず語り継いで、平和な未来を作る夢を実現させるため、生きている限りがんばり続けます。

『憲法九条だより』第2号(2006年12月1日)から

2013年1月6日日曜日

改憲の策動を打ち破り、憲法9条を守り広げる大きな流れを作りましょう


本会事務局長 上田規美子

 12月16日投票の衆議院選挙の結果、自民党が圧勝し、改憲の騎手である安倍晋三氏が首相になりました。共同通信社のアンケート調査では、憲法9条改正賛成の議員は75.6%で改定に必要な3分の2以上の条件を満たしています。また、集団的自衛権の行使について、解釈見直しを、としている議員は81.1%にのぼるという結果です。

 このことから、憲法9条の改正が一気に加速することになります。そしてまずは、憲法96条の、改定に必要な国会発議要件を現行の3分の2以上から2分の1以上に緩和することから始めようとしています。

 私たち「9条の会」は、二度と戦争を起こさないように平和を守り広げていくためにも、憲法9条を要(かなめ)としてその大切さを訴えてきました。平和な世の中を子どもや孫たちに伝えていきたいと願って活動しています。この憲法9条があるからこそ、戦後自衛隊がイラクなど海外に行っても、一人も殺すことなくきているのです。

 いまアジア諸国からも、日本の右傾化について厳しい目が向けられています。もし憲法9条をかえて自衛軍を持つようになれば、外国との平和外交をすすめていくことが困難になることは目に見えています。憲法9条を守り広げていくことが、いまこそ日本の、そして「9条の会」に課せられた大きな課題です。

 今年は、よりいっそう対話を広げ、9条を守る大きな流れを作り出していきましょう。 

『憲法九条だより』第19号(2013年1月10日発行予定)から

2013年1月4日金曜日

これからが正念場:新しい年を迎えて


雨後のブラーの島(水彩画・部分)

本会代表 多幡達夫(文と絵)

 2013年は巳年、すなわちヘビの年です。かつて朝日新聞に連載されていた大岡信氏の「折々のうた」に、ヘビを読み込んだ次の短歌が紹介されていました。
 ばんざいの姿で蛇に銜(くわ)えられ春らんまんの蛙いっぴき
——鳥海昭子『花いちもんめ』

 大岡氏の解説には、まず、この歌の意味だけを見れば「動物世界の残酷物語ということになろう」とあります。続いて、歌を読み下すときの印象は別で、明るさがあることを指摘し、それは「春らんまんの」という「思いきった形容の効果」だと述べています。

 明るい印象があれば、一見残酷な歌でも年賀状に使ってもよかろうと、私は思いました。しかし、衆院選の結果を見て、次のような、残酷さにかかわる連想を、この歌を引用したあとに書き加えざるを得ませんでした。

 「前途ある多くの若者が、ばんざいを唱えながら散って行った時代へ歴史を逆戻りさせてはならないと、切に思うこの頃です。」

 衆院選で多数を取った自民党が準備している改憲草案は、大勢の若者たちが強制的に軍隊に入れられ、このように無駄に命を落とした時代を再現するものです。しかし、自民党の「圧勝」は、多党乱立、低投票率、小選挙区制の弊害などによる見かけ上の現象で、民意は決して、こうした恐ろしい「改憲」や、危険な「原発再稼働」を認めて、「憲法9条護持」や「原発ゼロ」に背を向けたのではありません。

 9条を守り活かし、また原発ゼロを早期に実現するための闘いは、これからが正念場と思って、私たちは、いま気持ちを引きしめなければなりません。

 上の水彩画(部分)は、私がイタリア旅行で訪れたブラーノ島の街の、雨後の風景を描いたものです。その旅行をしたのは、2003年、イラク戦争が始まって間もなくで、イタリアのどこの街でも、PACE(パーチェ、「平和」のイタリア語)の文字の入った七色横縞の旗が家々に掲げられ、イラク戦争反対を表明しているのを見て感心しました。絵の左端の商店の二階の壁にもその旗が見られます(左上隅)。私たちも、「9条を守り活かそう」の意思表示をしっかりと示して行きましょう。

本会の『憲法九条だより』第19号(近日発行予定)から

2012年10月7日日曜日

戦争体験を語る:上・三池尚道さん(その2)


三池さん(初回の記事はここをクリック

戸田基地

 「丸大」とは海軍独特の名前で、いわゆる敵船に魚雷を抱いて体当たりする一人乗りの人間魚雷艇のことでした。空の特攻隊に対して海の特攻隊です。もはや飛行機がないために考えられたことだったと思いました。三十から四十機あったと思います。

丸大:体当たり自爆用なので、帰還するための脚や車輪など降着装置はない。部署によっては桜花と呼ばれていた。(東海大学・鳥飼行博研究室ウェブページから)

 基地は早稲田大学水路部所有の学校のような建物を借りており、ハンモックで寝ました。ビンタやバッタは土浦や岡崎ほどではなかったが、相変わらずここでもやられていました。

 同じ部隊に、赤紙で召集された私たちの親みたいな年寄りの初年兵がいました。私たちは当時伍長で、階級は上でしたから、出会うと敬礼してくれましたが、「そんなんせんでかまへんかまへん」と言ってやりました。申し合わせたことはなかったけど、同期の誰もが叩いたりは絶対にせず、やさしく接していました。年寄りの初年兵も叩かれることを覚悟して来ていたようで、喜んでいました。

 辺ぴな漁師町の戸田に来てからは都市のようなB29による空襲はなかったが、グラマン戦闘機の機銃掃射は一層激しくなりました。ある日かつお船を狙って急降下爆撃し次つぎと船を沈めたとき、漁師さんを助けに向かったこともありました。

 また同期生が外で作業をしているとき、三人撃たれて死にました。一人は弾は首の後ろからお尻まで縦貫し即死でした。弾が出たお尻には大きな穴が開いているのを近くで見てしまいました。終戦がもう半年か一年遅かったら、私も命は無かったと思います。訓練は毎日でしたが、結局終戦まで戸田基地から丸大に乗船して敵船に突撃したこと一回もありませんでした。

敗戦

 八月十五日は、普段と同じように訓練をしていました。玉音放送(天皇肉声の放送)があることも知らされていませんでした。

 この日、将校十三人全員が突如いなくなりました。翌日になっても姿が見えません。「おかしいな?」と話し合ってたのだが実は、敗戦を知り、部下から逃げるようにこっそり姿を消したのです。何とも卑怯で抜け目ないですね。まじめに一生懸命やってる兵隊はかわいそうなもんですね。寒い冬でも将校達は命令して見ているだけで、部下にはふんどし一丁で海に入らせたり上がらせたり、また入らせたり上がらせたり…。「いままでさんざん痛めつけておいて、見つけたら叩き殺してやる!」と怒っている人もいました。

 私たちが知ったのは、二日後の十七日です。漁師の奥さんがサクランボをとりに基地の中に入ってきて話したとき、「あんたら知らんのかいな! 日本は戦争に負けたよ!」と聞きました。その時はなぜか「よかった」とか「助かった」というような気持ちは湧かず、「しゃーないな。荷物はあるしどうして大阪の家に帰ろうか…」と、そのことばかり考えていたように思います。

 他の若い者も同じようでしたが、年寄りの兵隊だけは喜んでいましたね。待っている家族のことなどがあったんでしょうかね。

家族のもとへ

数日後土地の人からリヤカーをもらって荷物を積み、四人で沼津駅まで二十キロほどを歩きました。終戦の混乱で汽車は切符も買わずに乗れました。有蓋貨車に乗り込み大阪に向かいましたが、将校連中がたくさん乗っていました。

 当時家族の住んでいた岸和田に帰って数カ月してから、やっと「戦争がおわってよかった!」と、じわっとうれしく感じるようになりました。戦争嫌いだったのになぜなんでしょうかね? 自分でもよくわかりません…。

戦争責任

 戦後になって天皇が戦争責任はなかったと聞き、「これは世の中おかしいと違うか!」と、天皇の命令に従って戦争してきた者として理屈でなく純粋にそう考えるようになりました。

 いっしょに働いていた労働組合の人が「天皇が戦争責任がないなんて、そんなバカなことがあるかい!」と怒っているのを聞き、「ぼくと同じことを考えているんだ」と、うれしく感じたことも覚えています。

 「天皇陛下万歳と言って死ね」という教育ばかりを受け、「米英両国と戦争状態に入れり」と言ったのも天皇だし、「どんな辛抱してでも頑張らないといけない」と言ったのも天皇だし、戦死した二人の兄に赤紙をよこしたのも天皇だし、ビンタやバッタがやられたのも天皇の名のもとであり、それなのに何で責任がないのか腹が立って仕方がなかったです。

 この話は子にも孫にも何度となく話しており、よく分かってくれています。(次号に続く)

『憲法九条だより』第18号(2012年9月30日)から

2012年10月6日土曜日

オスプレイ配備よりも、国民の命を守ってください

上・井﨑孝子(本会世話人)


 今年は沖縄「復帰」40年。米軍基地はなくなるどころか、米兵・米軍による事件が繰り返されています。そこに突きつけられたのが、墜落死亡事故を繰り返すオスプレイの配備です。

 沖縄では全市町村議会で配備反対決議が上がり、9月の県民集会には息子家族と嫁のおかあさんも参加しました。まだ小さい孫たちに「県民集会どうだった?」と聞くと、「楽しかった!」といっていますが、県民のみなさんの熱気を感じてそう表現したのでしょう。

 孫たちが住む那覇の空を危険な折りたたみ飛行機オスプレイが飛ぶことを絶対許すことが出来ません。

 普天間基地がある宜野湾市をご存じでしょうか? 堺東ぐらい家いえが密集して立つ都会です。フェンスのとなりに小学校や大学があります。

 それはそうでしょう。本土の基地の成り立ちとちがって、沖縄の基地は本土を守るための捨て石としてアメリカに渡され、アメリカから銃剣とブルドーザーによって奪い取られてできた基地なのですから。

 わずかながら返還された基地跡の土地は、いま大きな商業都市になって、基地があったときよりずっと多くの働く場所があり、生き生きしています。沖縄に基地がなかったら、経済も雇用も文化もどんなに発展するだろうと、悔しくてなりません。

 孫たちの命を脅かすオスプレイ配備に断固反対します。

『憲法九条だより』第18号(2012年9月30日)から

2012年10月5日金曜日

原水爆禁止世界大会に参加して:憲法九条だより18号から



 本会の機関紙『憲法九条だより』18号が、9月30日付けで発行されました。発刊以来編集を担当してきた小倉さんに代って、本号から井崎さんが担当することになりました。

 上掲の写真で、上部の2枚は17号1面と16号2面、下部の2枚が今回発行の18号1、2面です。新しい編集では、記事本文に本式の新聞に使われているようなやや横長のフォントを使い、1段の字数も少なくして、女性担当者らしいソフトな感じの紙面になりました。

 同機関紙に掲載した記事は、従来通り、このブログ・サイトでも順次紹介します。その際には、文章にうるさいブログ担当者が、さらなる読みやすさを考慮して、機関紙に掲載の文に多少手を加える場合があります。

多幡記


原水爆禁止世界大会に参加して
耳原鳳クリニック運動トレーナー・本部勇地

 原水爆禁止2012年世界大会に参加しました。大会には福島県浪江町長も初めて参加して、「自らの利権を得るための核開発・製造を放棄し、自然エネルギー普及を実践。喜びを分かち合える世界の実現へ心ある人たちと連携し、これからも長い厳しい道のりを歩んでいく」と挨拶をされました。また、福島県の高校生の「私たちの未来に核兵器も原発もいらない」と声を震わせながらのスピーチもあり、強く心を動かされました。

 核はひとたび事故が起こると取り返しのつかない状態になるため、原発ゼロは原爆ゼロに向かう大きな問題だと認識させられました。原爆の悲惨さを経験した、世界でただ一つの国である日本は、今も20万人を超える被爆者が心と体の傷に苦しみながら、核兵器の廃絶を訴えています。一人ひとりの市民が、被爆者とともに声を上げ、草の根の運動をし続けることが必要だと感じます。

 そして被爆者の高齢化が進む中、核兵器のない世界を一人でも多くの被爆者の方と迎えられるように、核兵器廃絶を実現し、被爆者の生の声を聞けるぼくらのような若い世代が、未来をになう世代の子どもたちにも伝えていかなければならないと思いました。そして、この気持ちをこれからも忘れることなく持ち続けていこうと思いました。

2012年6月6日水曜日

情報短信:「日本国憲法が最先端」と米憲法学者らが分析


◆衆参両院の憲法審査会が始動し、自民党、みんなの党、たちあがれ日本などが改憲案を発表。そのどれもが九条と天皇を標的としています(注1)◆自民党が4月末に発表した草案は、天皇を「元首」に、「国防軍を保持」などとし、現憲法の平和主義を正面から踏みにじっています◆議員連盟が「一院制とする」改憲原案を国会には初めて提出しました◆「大阪維新の会」は「維新八策」原案を発表し、9条改定、参議院廃止などを主張。橋下氏は「ガレキ処理が進まないのも9条のせい」という荒唐無稽な理屈で、9条への憎悪をむき出しにしています◆憲法記念日の全国紙は真正面から改憲論議を煽っており、憲法を生かすべきと論じた大手メディアは一つもありません◆皮肉にも、5月3日付け朝日紙の国際面は、米憲法学者らが世界188か国の憲法を分析した結果、日本国憲法が最先端、と報じていました(注2)。

『憲法九条だより』第17号(2012年5月10)から


 注1. さる5月31日に行なわれた憲法審査会での議論は、「<衆院憲法審査会>9条改正、各党割れる」(毎日新聞)あるいは「憲法9条に照らして日米安保なくすのが筋:衆院審査会 笠井氏が主張」(しんぶん赤旗)をご覧下さい。

 注2. 朝日紙の報道によれば、分析したのはワシントン大学(米ミズーリ州)のデービッド・ロー教授とバージニア大学のミラ・バースティーグ准教授。日本では、米国の「押しつけ」憲法を捨てて、自主憲法をつくるべきだという議論もあることについて、ロー氏は「奇妙なことだ。日本の憲法が変らずにきた最大の理由は、国民の自主的な支持が強固だったから。経済発展と平和の維持に貢献してきた成功モデル。それをあえて変更する政争の道を選ばなかったのは、日本人の賢明さではないでしょうか」と語ったということである。

2012年5月26日土曜日

憲法施行65周年にあたって(3)


ある日の憲法九条署名活動
上・荒川加代子

 3月7日、晴天だけど寒い朝、九条宣伝書名活動で鳳西町を一軒一軒訪ねました。留守も多い中、ピンポーン、「この鳳地域で憲法九条を守りたいと署名のお願いに周っています。ご協力いただけけませんか?」と声をかけると「ハーイ、待ってください」と言って出てきて下さり、「主人は政治的な話しは嫌うので…」と言いながらご主人の名前までも書いてくださった奥さんもいました。

 次の家も女性の方で「孫がいます、戦争になったら困るので…」と言って書いてくださいました。けれども、「でもね、中国みたいな国は何をするのか分からないので軍備は持たないとね! 攻めて来たらどうします? 話し合いでは解決しませんよ。私は橋下さん(大阪市長)を支援しています。今の世の中あんな強いリーダーでないと。公務員は優遇されているからね。先生は何で君が代を歌わないの? 立たないの? 先生は自分の考えで行動したらアカン。上が言っているのだから自分の考えを横において立たないと」などの言葉が次つぎと出てきました。

 「企業の門をくぐったら憲法は通らない」と公言する企業で長年働いていた私は、この方の意見を聞いて、瞬時にその当時の息苦しい雰囲気と重なりました。橋下大阪市長は「憲法九条はジャマ」とまで言ってるけど、巧妙な言い回しです。橋下さんに幻想を抱いている人たちにも九条を守る大切さを分かってもらわないと、と改めて思いました。

2012年5月17日木曜日

憲法施行65周年にあたって(2)


皆が…ではアカンのや

鳳南町・谷本好美

私が中学2年の昭和32 (1957) 年、担任から聞いた話が、いまでもしっかり耳に残っています。「多数決で決めるという事は少数意見を無視することではありません」、「たくさんの人が言うから正しいとは限らない」、「少数意見もよく聞いた上で、しっかり考えて決めることが大切」だとして、ご自分の体験をリアルに語ってくれました。

「昭和20 (1945) 年7月、堺大空襲があってね。雨あられのように落ちてくる焼夷弾で私が住んでいた遊郭のある竜神町も火の海になったんや。日本の家は木と紙で出来ているからよく燃えるやろ! あっという間に火は広がっていき、恐ろしいから、まだ燃えていない方へ誰も逃げたくなるんや。お母さんが布団を貯水槽の水にザブンとつけて、『これを被って逃げるんや! 怖かっても燃えてるところを突っ切るんやで!』と走り出した。

「続々逃げてくる人と反対に走ってるわけやから、間違ってるんやないか! の不安と火の中を突っ切る怖さとで頭は混乱してたけど、『燃えてしまったらもう燃えるものはない』というお母さんの言葉は正しいと信じて必死に走った。遊郭の土塀の中で蒸し焼きになった人、土居川に入ったまま亡くなった人、それよりも風下に逃げ火の速さに勝てず亡くなったたくさんの人を見て、戦争の恐ろしさと、『皆が行くから自分も行くではアカンのや、それが正しいとは限らんのや!』ということを、中学生だったけどその時実感したんやで。」

先生は、ご自分の体験を話し、民主教育をしてくれていたんだと、いまでも記憶しています。

『憲法九条だより』No. 17(2012年5月10日)から

2012年5月16日水曜日

憲法施行65周年にあたって(1)


 日本国憲法は施行65周年を迎えました。東日本大震災からの復興、消費税増税に頼らない社会保障の充実、沖縄米軍基地撤去などの実現に、憲法を生かすことがいまこそ重要です。しかし自民党など改憲派は震災や「政局」などを理由に、巨大メディアを味方にして、憲法改正の動きを再浮上させています。さらに、人権と民主主義を権力で窒息させる新たな動きも出ています。今回3人の方がたに憲法への思いを聞きました。順を追って紹介します。

憲法9条を敵視する橋下「維新の会」
市民の良識示し、反撃を


鳳東町・星 昭雄
(堺市職員労働組合副執行委員長)

 橋下徹・大阪市長率いる「大阪維新の会」は、国政進出の足掛かりとして策定した「維新八策」原案で、憲法9条改定の国民投票や参議院の廃止など、憲法改定の主張を繰り広げています。橋下氏はツイッターで、「(被災地の)がれき処理が進まないのも、全ては憲法9条が原因」と主張するなど、平和憲法を敵視する発言・行動が相次いでいます。

 そのような発言を繰り返す橋下「維新の会」が、異様とも思える「支持」を得ている背景には、民主・自民の「二大政党」に対する国民の不満と、時には暴言とも取れるアジテーション(扇動)に変化への「期待」を得てるということがあるように思えます。

 しかし、橋下氏が大阪府知事・大阪市長として行ってきたさまざまなことを冷静に見れば、彼が国民の期待に逆行していることは明らかです。「子供が笑う大阪」と公約して府知事に当選した橋下氏が真っ先に行ったのが、府立高校の統廃合計画でした。また、障害者団体や福祉作業所などの補助金カット、中小企業振興費の削減などを強行する一方で、WTCビルの庁舎化など、財界が泣いて喜ぶ政策を次つぎと推し進めています。

 さらに、橋下氏が大阪市長に就任して以降、市職員に対する思想調査や「君が代」斉唱の口元チェックなど、人権侵害も甚だしい事態が相次いでいます。これらの策動や「教育基本条例」「職員基本条例」の強要は、市職員や教職員に対しての攻撃にとどまらず、府民・住民に対するものであることを、広く知らせていくことこそ、橋下「維新」の暴走を止める最大の力となるのではないでしょうか。

 堺地域では4月、「『教育基本条例案』『職員基本条例案』を否決した堺市議会の良識ある判断の維持を求める要請署名」の運動がスタートしました。「『大阪都構想』から堺市を守る自由と自治・堺の会」も活動をはじめ、立場や思想信条を越えて力を合わせる舞台が作られました。

 また、「堺市の未来と大阪都構想を考えるフォーラム」の第3弾として、来たる6月9日には「旭堂南陵師匠と語る堺の歴史・文化のつどい:『大阪都構想』から自由と自治を守るために」(午後1時30分から堺市民会館で)が開催される運びとなっています。これらの運動のひとつひとつを大きく成功させることで、堺のまちと市民生活、そして平和憲法を守る世論を大きく広げましょう。

『憲法九条だより』17号(2012年5月10日)から

2012年1月13日金曜日

情報短信 その2:アフリカにも9条の碑がある、など


アフリカにも9条の碑がある

 本会の「5周年のつどい」での伊藤千尋さんのお話は大好評でした。「世界から基地が消えている。これが常識」「アフリカにも9条の碑がある*。世界中が9条の精神で満ちる日が来るかも」など、たくさんの元気をいただきました。感謝です。

 * アフリカ沖のスペイン領カナリア諸島の島に、「ヒロシマ・ナガサキ広場」があり、畳1枚ぐらいの大きさの白いタイルに青い文字で、憲法9条の条文がスペイン語で焼き付けてあるということです。伊藤さんの著書『活憲の時代:コスタリカから9条へ』に詳しく紹介されています。

岡島傳兵衛さん

 『憲法九条だより』15号で戦争体験を語っていただいた岡島傳兵衛さんが、さる12月22日、満100歳で生涯を閉じられました。ご家族の皆さまに謹んでお悔やみ申し上げますとともに、岡島さんのご冥福をお祈りいたします。

(『憲法九条だより』16号、2012年1月1日から)


本会世話人・浅井さん自製の「9条年賀状」2012年版

2012年1月11日水曜日

「5周年のつどい」への感想


 本会の「5周年のつどい」は、2011年10月30日、堺市・西文化会館で102名の参加を得て開催されました(既報「5周年の集い成功!」「福泉・鳳地域『憲法9条の会』5周年のつどいの情景」参照)。朝日新聞記者・伊藤千尋さんのお話は参加者の眼と心をくぎ付けにしました。「野のちから」の武南千賀子さんから次のような感想を頂きました。

元気になりたければ、伊藤千尋さんの話を聞こう

 地球のそこかしこにいる、普通の人びとの「すごーい闘い」をさらーと話してくださいます。「すてき!」と、目を白黒しているうちに、講演はおしまいになりましたが、後味は格別です。「日本の憲法九条が世界中でどんなに輝いているか」、「平和を守る運動はたのしくなくちゃ」など。好奇心と、探究心と、感性の豊かさをもって、どんな時もわくわくしながら取材する伊藤千尋さん。「民主主義って一人ひとりが自立すること」、当たり前のこの言葉が、いつにも増して心に響きました。

(『憲法九条だより』16号、2012年1月1日から)

本会世話人・浅井さんの自製「9条年賀状」
(2011年版)

2012年1月9日月曜日

戦争体験を語る:「内地の人には、申し訳ないような話です」——野村厚夫さん


鳳東町・野村厚夫さん

獣医が夢

 私は少年兵として戦地に行きましたが、怖い・苦しい体験話はありません。敵の飛行機も船も兵隊も見たことはありません。食べ物も着るものも不自由したことはありません。そんなんでお役にたてるかどうか不安ですが、[体験を聞かせて欲しいとの]お話をもらってから思い出してはメモをしてきました。

 私は大正15年4月3日、桜島のふもと、鹿児島県垂水市8人兄弟の5番目で生まれました。経済的に恵まれ、何の苦労もなくのびのびと育ちました。特に楽しみなのが家で飼っていた牛や馬や豚や鶏を世話することでした。裸馬に乗って駆け回ることも大好きでした。時々さっそうと馬に乗ってやってくる獣医さんに憧れていました。

 尋常高等小学校を卒業し、親や先生の勧めで技術院養成所に入りましたが、獣医になる夢が捨てきれず、そこをやめて単身で支那へ渡り、南京ちかくの鎮江にある陸軍獣医務下士官候補者隊に入隊しました。看護婦のような手伝い仕事で、ここにいても獣医にはなれないと分かり、1年程してから少年兵として志願しました。

恵まれた軍隊生活

 このころは戦況も悪く、出征を送り出すばかりの自分が恥ずかしい気持ちになっていたことがありました。志願して出征することは死を覚悟することでした。親に相談すると「好きにせい」と、反対はありませんでした。

 昭和20年2月に入隊し、北朝鮮、会寧にある陸軍14飛行教育隊に配属されました。近くを豆満江が流れており、そこでやらされたことは、毎日のようにツルハシとスコップで壕掘りするばかりでした。飛行場はありましたが、飛行機はなく、通信・整備の勉強を雨の日には若干しました。飛行機に触れたのは2~3回だけでした。

 ここの中隊長はお寺の坊さんと聞きましたが、とってもよい人でした。隊内でビンタとかいじめもありませんでした。ただ、戦陣訓の暗唱が命じられていて、覚えていない人は叩かれているところを見かけました。帰ってから他の人に聞いて分かったのですが、私の軍隊生活は本当に恵まれていたと思います。

勝てるとは思えない

 教育が終わり、それぞれ各地に配属され、私は隣にあった飛行隊になりました。ここも飛行機はありませんでした。飛行場にムシロを飛行機の形におき、上からペンキを塗り日の丸を描き、飛行機があるかのように偽装し、近くにタコツボを掘って機関銃を据え「敵が来たら反撃するように!」言われましたが、敵が来たことはありませんでした。こんな子どもじみたことをしているようでは、この戦争を勝てるとは思えませんでした。

 8月9日、ソ連が参戦し、清津では艦砲射撃がはじまったと聞き、部隊ごと逃げることがうわさされ始めました。8月13日、会寧駅から食料など何でも積んで、70~80人の部隊ごと貨車で移動を始めました。日本が負けることを予想しての行動だと思いました。汽車はソ連の飛行機に見つからないようにと、夜間だけ走りました。敗戦前日の8月14日夜、同乗していた報道関係の人から、「日本は負けた」と聞きました。部隊長は「でたらめだ!」と怒っていました。

少しでも日本に近い方へ

 8月15日朝、朝鮮人がわれわれの貨車に向かって「朝鮮独立万歳、独立万歳!」と叫びながら、貨車にぶら下がったり、石を投げたりしてきました。汽車は引き込み線で平城飛行場の兵舎に入りました。飛行機で逃げる話もありましたが、ソ連が南下しており、上空にはソ連機が飛んでいる連絡があり、少しでも日本に近い方へ逃げようと、朝鮮人の運転手と交渉し同じ貨車で南下しました。

 8月16日朝早くに大田駅まで逃げてきました。ここで銃や武器を返納させられましたが、特に危険を感じることはありませんでした。駅近くの女学校に入り教室に宿泊し、10月まで1ヵ月半滞在しました。ここでの生活は、日本でご苦労されていた人たちには申し訳ないような、贅沢に過ごした期間でした。貨車に積み込んできた物資で、さんざん食べ放題、飲み放題、演芸会や運動会や相撲大会などもあり、楽しくブラブラしていました。町へ出かけるのも許可されていました。どうしてこんなにさせてくれたのか、今考えても不思議です。

 10月12日に女学校を出て、一般の汽車で釜山に向かいました。そのとき布団袋を半分に切り、糸と針を使ってリュックを作り、毛布や毛糸の肌着やお米、砂糖は枕カバーに詰め込んで、持てるだけもって汽車に乗りました。こんなことができたのは私たちの部隊くらいだと思います。

戦争の犠牲となった少年たち

 先の戦争は間違っていたと思います。私が考えても勝てないことは分かったのに、戦争を始めて多くの国民が犠牲になりました。戦後、梅田の地下に靴磨きの浮浪児がたくさんいました。国が始めた戦争の犠牲となったこの少年たちを、なぜ国は面倒見てやらんのだろうと、怒りのようなものを感じたことがありました。

 昭和18年と19年に長兄と次兄が戦死しました。長兄が招集されたのは35歳で、結婚して子供も2人いました。農業指導員で、ミカン農家に大変信頼され、社会的にも期待されていました。父親もこの時だけは涙を流して悲しみ、見ていて辛いほどでした。

 戦争は絶対にしてはいかんです。犠牲になるのは弱い国民です。しかし、他の国に侵略されたくないから軍備は国を守るために必要だと思います。戦争させないためにも必要だと思っています。

(インタビュー2011年12月8日、小倉・荒川)
(『憲法九条だより』16号、2012年1月1日から)

2012年1月7日土曜日

情報短信 その1:改憲へ危険な動きが活発化、など


絵手紙 上・井崎孝子

改憲へ危険な動きが活発化

 3・11大震災後静かだった改憲の動きが、暮れ頃から新たな段階を狙っています。
  • 11月、衆院憲法審査会の開催。同じころ、自民、民主、公明、国民新、みんな、立ちあがれの各党改憲派議員で改憲推進会議開催。
  • 参院でも2007年8月の設置以来初めて、憲法審査会の開催を決定。自民党では起草委員会を開催し、今年4月をめどに改憲案の発表を決定。
  • さらに、民主党は「審査会委員の選定に着手している。次国会の冒頭、早い段階で対応したい」。
 委員名簿提出は、憲法審査会の正式始動を意味し、改憲策動が新たな段階に入ることにつながります。

ちょっといい話

 2011年10月19日の九条宣伝・署名活動に鳳北町8丁を訪問しました。終わって鳳北町公園で仲間を待っていると、七十代ぐらいの女性が通りかかりました。「こんにちは、私たちは日本が二度と戦争を起こさないように憲法九条を守る署名活動をしています」と声をかけると、「署名は夫の関係でダメだけど、5周年の券は買いますよ、頑張ってくださいね」といってくれました。そしてビール2缶を差し入れて貰いました。こんなことは初めてで、とてもうれしく、元気が出ました。もちろんビールも美味しかった!(K・U)

(『憲法九条だより』第16号、2012年1月1日から)