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2016年9月15日木曜日

本会ニュース『憲法九条だより』30号発行


 本会ニュース『憲法九条だより』30号が、2016年9月15日付けで発行されました。上掲のイメージをクリック・拡大して、ご覧下さい。

2016年6月13日月曜日

本会ニュース『憲法九条だより』29号発行


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2016年1月20日水曜日

本会ニュース『憲法九条だより』28号発行


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2015年9月1日火曜日

本会ニュース『憲法九条だより』27号発行


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2015年5月12日火曜日

本会ニュース『憲法九条だより』26号発行


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2014年9月2日火曜日

本会ニュース『憲法九条だより』24号発行


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多幡記

2014年5月18日日曜日

「解釈で憲法9条を壊す 集団的自衛権行使容認は許せません」:『憲法九条だより』第23号発行



 このたび本会の機関紙『憲法九条だより』第23号が発行されました。同紙編集担当者の健康上の理由のため、縦書きワープロソフトを持たない本会代表が代って編集し、始めての横書きとなりました。上掲のイメージをクリック・拡大してご覧下さい。

(文責・多幡)

2014年1月5日日曜日

「生き残ったのも地獄でした…戦争の惨禍を伝えていくのは私の責務だと思ってきました」:大阪空襲訴訟原告団・安野輝子さん


 大阪空襲訴訟原告団の安野輝子さん(堺市西区在住)から、新年の挨拶とともに、平和を願う思いをつづった文がメールで本会へ寄せられました。以下に紹介します。
 私は足を奪われました。B29の投下した爆弾の破片が後頭部に当たった人は、その夜も明けきらぬうちに亡くなりました。地鳴りのようなうめき声が、出血多量で死線をさまよい意識がうすれていく私の脳裏に、耳に焼きついて今も離れません。その女性は、まだ二十歳半ばの銀行員でした。生かされたのか生き残ったのか、私には朝が来たのです。生き残ったのも地獄でした。1945年7月16日~17日のことです。

 戦争の惨禍を伝えていくのは私の責務だと思ってきました。再び戦争の惨禍にまみれることがあってはならない、孫たちには平和な世を手渡したい、と、そればかり思ってきましたが、昨年12月、特定秘密保護法が成立しました。戦争は秘密からはじまるといわれますが、国家権力の横暴に成す術もありません。

 集団的自衛権の行使の容認、先の大戦の犠牲の基にできた平和憲法の改正など、この国は、どこへ向かっているのでしょうか。1万発の弾薬とは、何人の命を殺めるのでしょうか。

 昨年も、東日本大震災の復興は成らず、原発の汚染水は海にたれ流したまま…。あれもこれも胸の痛むことばかりでも、なにも成せない、むなしさがつのります。

 上記の文を添えたメールに続いて、秘密保護法の成立に落胆していた彼女が、「昨年は、戦後史のターニングポイントともいうべき年となりましたが、民衆の歴史を作るために今年があると思います」という言葉に励まされ、元気をだしていこうと思っている旨の追伸メールを貰いました。こちらのメールが、安倍首相の年頭所感中の「憲法改正に向けた意欲」に抗して、今年を憲法9条を守り生かそうの大合唱の年にしたいという筆者の思いに通じるところがあったので、3日付けの本ブログで先に紹介した次第です。

多幡記

2013年12月15日日曜日

戦争体験を語る:佐藤鹿津さん(1)

「15歳で一人っきりに」


佐藤鹿津さん(鳳南町)

一、母の苦労

 私は昭和4年1月、高知県で4人の子どもの末っ子として生まれました。2人の兄と1人の姉がいました。父は代書の仕事をしていたようですが、私が10歳の時に脳溢血で急死し、記憶にはほとんどありません。父の死後は母が縫物などいろんな仕事をして、苦労をして育ててくれたようです。食べ物には不自由することはありませんでしたが、着るものでは、いい服作ってくれないし、貧乏になったのかなと感じた記憶があります。

 子どもだったので当時のことはよく分かりませんが、父は土地を持っていたようで、小作料でしょうか、お米だけは近所の人がよく持ってきてくれてました。この土地が兄や私たちの学費や生活費になっていたのかもしれませんが、そこはよく分かりません。野菜や魚などはあまり食卓に並ばなかったように思いますが、そんなことは今考えてのことで、当時は気づいてもいませんでした。

 お陰で悩んだり苦しんだりすることもなく、女の子らしくゆったりと育ててもらいました。私は幼いころから肉や魚が嫌いで、今でも食べませんが、6年生のある日「肉が食べたい!」といったら、母が喜んでくれて、手に入りにくい時代なのに遠くの町まで買いに行ってくれた記憶があります。わがままな私なのに、大切にしてくれていたんだなと思います。

二、戦争一色、勉強もできない

 女学校へ入学した年に太平洋戦争がはじまりました。戦争一色になって、英語はアカン、あれはイカンで、ほとんど勉強もできず、勉強してても百姓の家から「手伝いがほしい!」と言われたら、勤労奉仕ということで、勉強をほっといて、稲刈り麦刈りなど手伝いに行ったりして、ほとんど授業はなかったです。親が苦労して月謝払っているのに、これでいいのかなと疑問に思っていました。また、出征兵士の見送りや英霊のお迎えには、日の丸の小旗をもっていきました。まだ子供でしたからその意味も感じてはいませんでした。

三、兄が軍隊へ、母は亡くなり…

 兄の話ですが、どうしても早稲田大学にいきたいといって、父親に談判して了解をとり、入学しましたが、途中、父の突然死があり、詳しくは知りませんが、その後は母の手一つで、兄も母も相当苦労したと思います。戦争をしている時代だったからでしょうか、繰り上げ卒業をして会社で働いていたようです。昭和18 (1943) 年の夏、高知の家に帰って、しばらくして軍隊に入りました。朝倉の連隊へ母と面会に行ったとき、当番の兵隊さんが「一重の軍服を着ているから、行くのは南方ですよ」と教えてくれました。

 母は心配しましてね、過労もあったと思いますが、体をこわし病気になり、その年の暮れに亡くなりました。もう一人の兄と姉も結核などの病気で、すでに亡くなっており、私は15歳で一人っきりになってしまいました。母の亡くなった日に、兄から「南方にいる」という手紙が届いたんです。近所の人たちのお世話で母の葬儀をすませ、一人の生活となりました。いとこが時々様子を見にきて「よう生きてる、よう生きてる」と心配してくれていましたが、淋しいとか怖いとかは考えませんでした、生きていくにはそうせざるを得ませんでしたから。必死だったんだと思います。

(つづく)

(インタビュー・2013年2月10日、小倉・荒川)
『憲法九条だより』第22号(2013年12月10日)から

2013年9月4日水曜日

戦争体験を語る:鳳東町 藤田 均さん

 [この記事は2011年1月17日付けで、ブログサイト「福泉・鳳 憲法9条の会 2」に掲載したものを、こちらへ移行したものです。]

旧朝鮮で経験した敗戦と帰国の苦難


藤田 均さん

 自分は朝鮮(当時)で生まれ育ちました。父は北海道、母は福岡出身ですが、平壌の西南、大同江という内海に面した町、兼二浦(現在の松林市)で昭和10年4月、5人兄弟の3番目としてこの世に生を受けました。

 兼二浦は日本製鉄(後の八幡製鉄)の町で6千人の日本人が暮らしていました。父は社員でしたが、昭和15年病死の後、母が働くようになり、ずっと社宅に住んでいました。町は怖いことも無く、表向きは平和でしたが、日本人が悪いことをしており、朝鮮人は抵抗もせずジッと辛抱していることは、自分のような子どもにも分かりました。例えば、日本人の奥さんがリンゴの入った籠を頭にのせて売っている朝鮮女性の足を引っ掛けて倒し、転がっているリンゴを笑いながら持ち帰るのを見かけたことがありました。

 終戦の日ですが、油をとるための松の根を持って校門に入ったら、校庭で玉音放送が始まるところでした。整列して聞きましたが、雑音で校長先生も内容が分からなかったようです。1~2時間後に日本が戦争に負けたと知りました。社宅は何時もどおり平静でした。間もなく、日本の神社が燃やされたり、朝鮮人の戦勝行列が近くを通ったりしましたが、日本人が危害を加えられることはありませんでした。

 8月30日頃「2~3日で帰らせるから身の回りのものを持って集まれ」と、刑務所跡らしい施設に連れていかれ、翌四月まで8ヵ月隔離されました。4畳半程度の部屋に兄弟5人と母と叔父と祖母の9人が入れられましたが、まだよい方でした。出入り口は北朝鮮保安隊が見張っていましたが、施設内は自由で、身の危険を感じることはありませんでした。食べ物はサツマイモ一切れや、固いとうもろこしでした。寒いし何もすること無いしお腹はすくし、辛い期間でした。ここでは栄養失調で亡くなったり、女の子が目が見えなくなったり、男の子が歩けなかったり、発疹チフスが発生したり、弱いものから食べ物を取り上げるなど悲惨なことを見たり聞いたりしました。

 氷が溶け出した頃、集団で夜中に船や汽車での脱出が始まりました。たまに失敗して連れもどされたところも見かけました。自分は北朝鮮保安隊から帰国許可を得た病人部隊に、盲目の叔父叔母と加わりました。20歳の叔父が隊長になりました。母や兄弟は2日前の夜、船で脱出していました。自分には何も告げていませんでした。無事に日本へ帰れるか、再び親子が出会えるか分からない中、母なりに考えた辛い決断だったのでしょう。


 4月10日「兼二浦駅」から汽車に乗り、「黄海黄州駅」で降りて宿に泊り、保安隊の臨検を受けました。翌朝再び汽車に乗り、38度線近くの「海州駅」に向かいました。駅に止まるたびに隊長の叔父が駅員に包みを渡すのを窓から見ていました。受けとらなくても「気をつけて!」という駅員さんもいれば、受け取っても悪態つく駅員さんもいました。叔父はどんな人にもぺこぺこと頭を下げ続けていました。「海州駅」にロシア軍がいるからと、二つ手前の駅に降り、小さい家で40人が座ったまま寝ました。

 この民家は38度線のわずか北に位置し、翌日から国境を越える苦しみが始まりました。明るくなって出発。ぬかるみの赤土農道を病人は荷車で。途中から雨で、さらにヒョウが混じり、リュックの芯までボトボトになっても歩き続けました。寒かった記憶はありません。それほど緊張していたのだと思います。40人の列もバラバラになり、立ち止まったり引き返したり…。夕方になってやっと一軒の農家に全員揃いました。区切りはなかったですが、どうやらこの民家は国境線の中だったようです。翌日もロシア軍と北朝鮮保安隊に見つからぬよう、農道を歩き続けました。

 2日間歩いて南鮮の「泉決駅」(多分)に着き、有蓋貨車に詰め込まれ、2日間ほどかかって「ソウル駅」に着きました。4月15日と記憶しています。南鮮でも食べ物はなくコーリャン、キビ、大豆が少し入ったお粥が大人子どもの区別なく配られました。誰一人苦情も言わず、トラブルも無く、静かに行動していました。「日本へ帰りたい」、「日本は戦争に負けたのだからおとなしくしないといかん」と不安に思っていましたが、朝鮮人から嫌がらせをされたことはありませんでした。

 「ソウル駅」から有蓋貨車に乗せられ、40人揃って「釜山駅」へ着きました。そこで偶然母と再会できました。引き上げ船で福岡に上陸したのが昭和21年4月18日。朝鮮にいるとき「日本は美しい国だ」としつこく言われていました。上陸して生まれて初めて見た日本は、一面焼け野原で美しくはありませんでした。(元自治会長)

(聞き手と写真=小倉)
『憲法九条だより』No. 13(2011年1月1日)から

2013年4月18日木曜日

戦争体験を語る:泉谷ミサノさん(1)

「死ぬんだったら家族と一緒に…」


泉谷ミサノさん(鳳東町)

女子はぺんぺん草

 私は大正14年9月20日、大阪市浪速区で4人姉妹の長女として生まれました。父は能登半島の輪島と穴水の中間あたりの片田舎、「与呂見」村の農家に生まれました。農家の女の子は「ぺんぺん草」という屋根に生える草にたとえられ嫁に行かなくてももどってきても養ってやるが、長男以外の男兄弟は「木っ葉」といって何一つ与えずに追い出される風習がありました。それで次男坊の父は大阪に出てきて運送業をしていました。といっても車ではなく馬車でやっていました。

 母は奈良県大和の田舎、柳生出身でした。両親とも穏やかでどこから見ても普通の家庭で、私は気ままにのびのびと育てられていました。近所には子どもが多く8人兄弟もめずらしくありませんでした。だから遊ぶ相手には事欠かず、お稲荷さんに行ってかくれんぼをしたり、ドッジボールをしたり、ハイキングに行ったり、よく遊びました。あの時代不良などする人はいませんでした。

勤労奉仕

 大阪市立立葉高等女学校に入学してからは、神武天皇から始まる天皇の名前を暗唱させられたり、薙刀(なぎなた)の練習をしたり、勤労奉仕として出征兵士の家に稲刈りの手伝いに行ったり、学校で兵隊さんの服などミシンかけをやったり、森ノ宮の砲兵工廠で軍刀や短刀を入れる革サック磨きは一日中外に出られず疲れたけど、ずっとでもなく苦しい辛いと思ったことはありませんでした。

栄養失調

 私はそろばんが得意で仕事ではずいぶんと得をしました。今でも買物をするときは暗算をしており、頭の老化防止にもいいようです。当時の給料は月30円弱、ボーナスは100円で結構よかったと思います。それで心斎橋をぶらついたり、買い物をしたり、宝塚やOSKを見に行ったり、気楽に遊んでいました。

 やがて戦況が厳しくなってきて、繊維業界は平和産業といわれ肩身が狭くなり、勤め先は店を閉めてしまいました。やむなく今度は日本通運に就職しました。その頃ものは不足しており、食べ物も配給制度になっていました。それでただでも食料が少ないうえに、私は好き嫌いをしていたことがたたって、事務所で倒れてしまいました。栄養失調と診断されました。それで日本通運も辞めてしまいました。療養を兼ねて一人で大和の柳生に疎開しました。大きな広い家には祖母が一人で暮らしており喜んでくれました。

空襲で丸焼け

 私が大和にいた昭和20年3月、大阪空襲で難波あたりがやられたとき、私の家も丸焼けになりました。両親と妹3人は奇跡的に無事でしたが、何もかも焼けてしまいました。私が大和に持って行ってた少しの写真以外はすべて焼かれ残っていません。小学校の同級生も多く犠牲になりました。生きていても名簿も焼けて連絡も取れなくなりました。だから同窓会はずっとありませんでした。その後何とか連絡がつき初めてやったのが60歳の時で、集まったのも10人だけでした。その中で今も生きているのは私と、小浜と福島にいる2人だけです。

能登の寺へ疎開

 空襲で焼け出された家族5人は住む家も無くなり、疎開をすることになりました。あてもなく父の故郷に向かい、石川県穴水と輪島の中間あたりの能登三井駅(2001年に廃線となり今はない)駅前の寺(記憶では徳成寺と思う)の本堂の片隅に布団をひき寝させてもらいました。お寺さんにとっては迷惑なことは分かっていましたが、行くところもなく仕方なく暮らしていました。

 その頃大和にいた私は激しさを増してくる空襲の話をあちらこちらで耳にしていたので、死ぬんだったら家族と一緒に死にたいと考え、祖母に引き止められたけど、家族のいるその寺へ行き、一緒に生活を始めました。この寺で終戦をむかえましたが、家族のくらしは更にたいへんになりました。(次号に続く)

(インタビュー、小倉・荒川、2012年5月22日)

『憲法九条だより』第20号(2013年4月1日)から

[「戦争体験を語る:泉谷ミサノさん (2)」はこちら]

2013年2月6日水曜日

戦争体験を語る:岩津恭子さん

「何十年たっても忘れられません」
鳳中町・岩津恭子さん
 この記事は、2010年5月11日付けで本会第2ブログサイトに掲載したものの転載です。(第2ブログサイトは、転載済みの記事から消去し、いずれ廃止する予定です。)

 学徒動員を終えた私が、昭和20年3月、女学校を卒業して、大阪市立の女学校の事務員として勤めた頃です。空襲警報が鳴りますと、重要書類箱を抱えて防空壕へ走りこむのが日課でした。その箱の中には天皇の「御真影」も入っていました。その日も、いつものように警報のサイレンが鳴り、防空壕へ走りこんだとき、背後でバシビシッと大きな音がはじけたのです。振り返ると、後ろから走りこんできた二人の生徒の背中に弾が命中して倒れたところでした。

 思わず私は息をのみ、空を見上げると、何と飛行機がすぐそこにきており、操縦士の顔が一瞬見えました。その顔はウサギを追う猟師のようで、心地よさそうにニヤリと笑っていたのです。武器も持たずに逃げている子どもを何で殺すのでしょうか! 弱冠十六歳だった私はぶるぶると怒りに震え、天を仰ぎ神を呪いました。戦争は人間をこれほど狂わせるのでしょうか!

 いのちを生み育てる母親として、このようなことは絶対に許せません。戦争が終わって一時は、生き残った安堵感と希望を感じましたが、罪もないあの女学生を殺したこの戦争を、何十年たっても絶対忘れることはできません。この悲惨な歴史の事実とわれわれ高齢者の貴重な体験を、戦争を知らない世代の若者に必ず語り継いで、平和な未来を作る夢を実現させるため、生きている限りがんばり続けます。

『憲法九条だより』第2号(2006年12月1日)から

2013年1月22日火曜日

戦争体験を語る:辻尾俊貞さん

「ただただ、こわかった空襲!」
鳳中町・辻尾俊貞さん
 この記事は、2010年3月13日付けで本会第2ブログサイトに掲載したものの転載です。(第2ブログサイトはいずれ消去する予定です。)
I

 私が6歳の時の経験です。ただただ「こわかった!」という想いは、幼い時ながら今でもありありと覚えております。とはいってもまだ幼稚園に入る前のことです。その時考えていたことや具体的なことになると、記憶がとびとびであったり、あやふやであったり、見たのか聞いたのか後で知ったのかなど、不明確なところが沢山あります。不明確なところは極力除いてお話しさせてもらいますが、そんなんでお役に立てるかどうか心配ですが聞いてみてください。

II

私の家は鳳駅西口を出たところにあり、7人家族でした。父は軍隊に入り森の宮で食料調達係りをしていたようで、家にはおりませんでした。その日、昭和20(1945)年7月9日はいろいろありました。空襲警報が鳴り、爆撃機の機銃掃射があり、電車の客が走って逃げてきて、私の家の縁の下に隠れることなど何回かありました。夕方は西南方向の空が真っ赤っかとなり、和歌山が空襲と聞きました。

その夜中です。母の大きな声に起こされました。空襲警報が鳴り響いていました。1回目攻撃の始まりでした。外に出ると空襲は始まっており、焼夷弾の落ちるのが花火みたいで、「きれいだなー」と見とれてしまったことを覚えています。すぐに屋敷の中にある防空壕に逃げ込みました。10人は入れる大きさで、隣の2家族も入っていました。入ってすぐ「駅の方が燃えだしたよ」と聞きました。

防空壕に逃げ込んだのは、母と1歳、4歳の妹と自分の4人で、叔父さん夫婦たちは「家が燃えたら火を消さないといかんから…」と入りませんでした。1回目の空襲が終わったとき、「ここにいては危ない!」ということで、母は1歳の妹を背負い、両手に4歳の妹と自分の手を引っ張り、さらにトランクを1個持って、浜寺公園めざして逃げました。

このトランクで笑えない話があるのですが、いざという時持って逃げるように日頃から通帳など貴重品を入れて準備していたようです。この日、前回出していたことを忘れて慌ててそのまま持ちだし、浜寺公園について開けたら靴下一足だけ入っており、母は悔しがっていました。

話を戻して、わが家を出て家々がごうごう燃えているそばをぬって走りました。今の星野医院のところまで来たとき、(そこは当時芋畑でした)頭の上から焼夷弾の雨が降ってきました。それも上からではなく、後ろから斜めに追いかけてくるように降ってくるのです。後ろを見ながら前に進むのです。それでも耳元をかすめるようにビュンビュンと降ってきました。一人に当たったところを見ました。逃げるのにけんめいで、人をかまってる余裕もありません。途中、野田共同墓地まで来ると、家もなくそこで空襲がやむまで待ち、そのあとまた歩きだし、やっと着いた浜寺公園で夜を明かしました。

朝になって歩く帰り道、「鳳駅前は焼けて、全滅です」と聞かされ、途方にくれていましたが、墓の前の木寺さんの家が残っており、そしてわが家も焼け残っていると聞き、嬉しくなりました。本当に残っていました。鳳中町で40軒たらずが焼け残ったと聞いています。

III

これからは家に帰ってから見たり聞いたりしたことです。わが家には爆弾2発と焼夷弾12発が落ちました。爆弾1発は井戸の中、もう1発は裏の道に落ちて爆発し、隣が丸焼けになりました。焼夷弾は、家の中には5発で、廊下に2発、畳に1発、天井裏に1発、風呂に1発、あとは庭でした。家の中の4発はいずれも屋根や天井も突き破り、仏壇の前や床の間や部屋に落ちて燃え上がりました。焼夷弾というのは油が燃えるので周りがベタベタです。廊下はどろっと油が流れて燃えていたそうで、燃え跡が広がっています。そのとき叔父さん夫婦は、「庭の池の水をバケツで汲んで消したんだよ!」と自慢そうに話していました。どうやら焼け残った家は、火が付かなかったのでなく、消火に成功したところが多かったようです。

当時の鳳には水道はなく井戸水で生活をしていました。しかし火事などのとっさのとき井戸水を汲んでいたのでは間に合わず、役に立ちません。当時の「防空訓練」では、風呂の水を抜かずにおいて、いざと言うとき消火に使うことが奨励されており、初期消火にそれも役に立ったようです。後になって、わが家の池の水が家を守ってくれたようなものだと聞かされ、代は変っていますが、今でも大切にしています。空襲の残骸としてわが家に、焼夷弾の不発弾と焼夷弾の傘とカラの焼夷弾が残っていましたが、間もなく軍が取りに来て渡したそうです。その後出てきた爆弾は今でも記念に残しています。写真を見てください。

写真1 庭の池。この池の水のお陰で、焼夷弾で火のついた
家を守ることができたと、今でも大切にしています。

写真2 仏壇のあった部屋。ここの天井を破って焼夷弾が落ち、
燃え始めましたが、叔父さんたちがバケツで消しました。

写真3 傷痕のある床。ここにも焼夷弾が落ち、板に傷痕が残っています。

写真4 燃えた襖。この部屋に落ちた焼夷弾が燃え、この襖の
一部を焦がしました。その部分に紙を当てています。
父親の描いた襖で、大切にしている作品です。

写真5 写真6 焼夷弾の油が燃えながら流れ、その痕が今でも黒く
残っています。木が焼けているので拭いても取れません。

写真7 庭で見つかった砲弾。戦後見つかりましたが、いつ、どうして庭にあった
のか不明。そのまま記念に保有しています。サイズは、高さ26×底8.5センチ。
弾薬の穴2.5センチ。重さは6.8キロありました。

後日同居の叔父から聞いた話です。この日の空襲は、野代から始まり、鳳駅から、でんでん坂に沿って、軍需工場だった旭精工までのコースでした。でんでん坂にある野田だんじり小屋も燃えましたが、地元の人たちと近くにいた兵隊さんたちが地車を引き出して助かったそうです。地車はその後取り替えた屋根以外が今でも黒くすすけているのは、この空襲とその後いっとき野ざらしとなっていた時の痕だそうです。

7月10日だったと思いますが、朝、家の前の鳳駅ホームを駅員さんが走り回っており、電車の中からどこで燃えたのか焼死体を一体ずつ引きずり出して、大きな缶の中に放り込んでいたのを見かけました。

これも同じ日の朝だったと思うのですが、和歌山から石油を積んできた貨物車が、当時複線だった羽衣線鳳駅から少し羽衣よりに停車していて、火が出ていました。相当長期間燃えていたのを見ました。

母の里が和歌山県橋本市で、そこに何度か疎開したことがあります。そこでのことですが、橋本駅の近くの池で4、5人で泳いでいるとき、突然飛行機が現れ、こちらに機関銃をバリバリと撃ちながら向かってきました。近くにいたどこかのおじさんが池に飛び込み、ぼくの足を引っ張って沈めました。近くを玉がぴゅんぴゅんと水の中を飛んでいきました。幼いですから、機関銃で死ぬということが分っておらず、池に沈められたことの方をこわく感じたことを覚えています。

この時、橋本駅も攻撃を受けました。国鉄と南海線の渡り陸橋側壁にその弾の傷跡があるのを見に行ったことがあります。何年か前にもまだ残ってましたが、現在もあるかどうかは分かりません。

当時、米は配給で、かってに売り買いすることは禁止され、見つかると警察に取り上げられ、罰せられました。当時の警察はとても威張っており、取り締まりも厳しいものでした。それでも足りないので、ヤミ米といって田舎に買出しに行きました。見つからないように風呂敷に入れ、腰にくくり、その上にねんねこで赤ちゃんをおんぶして、見えないようしていました。ある日、母と買出しに行き、南海高野線で和歌山から帰る途中の紀見峠トンネルをぬけたところで、機銃掃射にあい、列車がトンネルへバックしたこともありました。

IV

空襲のあと、近所で家をなくした4世帯がわが家でいっしょに生活するようになりました。家ができるまでの間ということで、人数はわが家の7人を含め22人と覚えています。一家族一部屋でぎっしりいっぱい、食料はすべて出し合い分け合って仲良く助け合い、炊事もひとつの鍋で一所にして、わいわい言いながら家族みたいにしていましたが、いつもお腹はすかしていました。芋のつる、大根の葉っぱなど、食べられる草で団子を作ったりして、なんでも食べた記憶があります。それでも、そんなに苦労したという気持ちはありませんでしたが、親たちは大変だったろうと思います。同居は長い家族で1年半ぐらいだったと思います。

同じような助け合いは他にもあり、貸家2軒のうち1軒が全焼しました。残った1軒に3家族が同居し、それが2年ほどは続いていたように思います。

幼稚園に入る年になっても幼稚園がなく、いきなり小学校入学でした。鳳駅東口前のコクサイパチンコのある場所にあったのですが、空襲で燃えてしまったのです。その後しばらくして、鳳小学校講堂(現在の体育館)の中に仕切りをして、幼稚園としていた頃もありました。また現在の鳳南地域会館の場所に移ったこともありました。その後現在の場所で開園されました。

鳳小学校は空襲にはあいませんでしたが、なぜか教室が足らず、1年生が午前、2年生が午後というような、変則な授業が1年間ほど続いた記憶もあります。また、理由は分かりませんが小学校1年生のときに、教科書が手に入らず、近所の先輩の教科書を借りてきて母がざら紙に書き写し、それを教科書にして勉強したこともありました。なぜかその教科書をその後も大切にしていて、探せばまだ家のどこかに残っていると思います。

V

恩師である大学の元教授は廣島の被爆者でした。その時、暑いのでトラックに下にもぐり寝ていて丁度陰になり助かったそうです。もちろん被爆者手帳はもっていました。何度も原爆資料館へご一緒して、よくお話を聞きました。自分でも足を運んで手をあわせたこともあります。

幼い頃の、ただただこわかった体験と、恩師のような出会いを重ね平和の大切さと人と人が殺しあうことはあってはならんことの思いは強くなってきております。憲法九条をなくして戦争への道を進むなんてもっての外で、大切に守ってほしいと思っています。

(辻尾俊貞さんは、現在、鳳校区自治連合会会長の他、地域役員を歴任中)
[インタビュー・2009年12月23日、写真と文・小倉
「憲法九条便り」NO. 11(2010年4月1日)に短縮した形で掲載]

2013年1月12日土曜日

戦争体験を語る:上・三池尚道さん(その3)
どこから考えても戦争はしてはいけませんな

三池さん

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兄弟5人中2人が戦死

 兄弟5人中4人が兵隊に行きましたが、2人が戦死しました。10歳上の長兄は大阪大学で応用化学と機械の道に優れていたそうですが、卒業と同時に召集されて大尉となり、フィリピンで戦死。26歳でした。

 7歳上の次兄は徴兵検査で合格し、入隊、3カ月後戦死。乗っていた船が南太平洋のニューブリテン島へ向かう途中、魚雷攻撃を受け沈没しました。

 特に長兄は両親自慢の息子であり、両親亡き後は家族の大黒柱でもありました。それだけに戦死を聞いたとき、今後どうしたらいいのだろうと相当悩みました。

 どちらも独身でしたが、両親が亡くなっていたとして遺族年金など補償金は全くなしです。受け取る親が生きていなかったとはいえ、自分は今でも納得できていません。

 いまでは兄弟でただ1人生きている私が2人の位牌を預かり、命日の毎月29日、今でもお坊さんに経を上げてもらい、手を合わせて供養しています。

戦争は絶対にしてはいけない

 戦争だけは絶対にしてはいけませんな。戦争に行っている人は大変だし、おくりだしている家族も大変ですね。

 考えてみれば、私の親もかわいそうなものです。苦労して育て一人前になったと思ったら戦争にとられ、一回も楽な目をしないまま死んでしまったとは。2人とも病死でしたが、もし戦争の時代でなければもっと長く生きられたかもしれないのに。

 子どもにしたって、成人にはなっても親が生きていることは生き甲斐になりますからね。どこから考えても戦争はしてはいけませんな。

(完)

(2013年3月26日、小倉・荒川がインタビュー)

『憲法九条だより』第19号(2013年1月10日)から

2012年10月7日日曜日

戦争体験を語る:上・三池尚道さん(その2)


三池さん(初回の記事はここをクリック)

戸田基地

 「丸大」とは海軍独特の名前で、いわゆる敵船に魚雷を抱いて体当たりする一人乗りの人間魚雷艇のことでした。空の特攻隊に対して海の特攻隊です。もはや飛行機がないために考えられたことだったと思いました。三十から四十機あったと思います。

丸大:体当たり自爆用なので、帰還するための脚や車輪など降着装置はない。部署によっては桜花と呼ばれていた。(東海大学・鳥飼行博研究室ウェブページから)

 基地は早稲田大学水路部所有の学校のような建物を借りており、ハンモックで寝ました。ビンタやバッタは土浦や岡崎ほどではなかったが、相変わらずここでもやられていました。

 同じ部隊に、赤紙で召集された私たちの親みたいな年寄りの初年兵がいました。私たちは当時伍長で、階級は上でしたから、出会うと敬礼してくれましたが、「そんなんせんでかまへんかまへん」と言ってやりました。申し合わせたことはなかったけど、同期の誰もが叩いたりは絶対にせず、やさしく接していました。年寄りの初年兵も叩かれることを覚悟して来ていたようで、喜んでいました。

 辺ぴな漁師町の戸田に来てからは都市のようなB29による空襲はなかったが、グラマン戦闘機の機銃掃射は一層激しくなりました。ある日かつお船を狙って急降下爆撃し次つぎと船を沈めたとき、漁師さんを助けに向かったこともありました。

 また同期生が外で作業をしているとき、三人撃たれて死にました。一人は弾は首の後ろからお尻まで縦貫し即死でした。弾が出たお尻には大きな穴が開いているのを近くで見てしまいました。終戦がもう半年か一年遅かったら、私も命は無かったと思います。訓練は毎日でしたが、結局終戦まで戸田基地から丸大に乗船して敵船に突撃したこと一回もありませんでした。

敗戦

 八月十五日は、普段と同じように訓練をしていました。玉音放送(天皇肉声の放送)があることも知らされていませんでした。

 この日、将校十三人全員が突如いなくなりました。翌日になっても姿が見えません。「おかしいな?」と話し合ってたのだが実は、敗戦を知り、部下から逃げるようにこっそり姿を消したのです。何とも卑怯で抜け目ないですね。まじめに一生懸命やってる兵隊はかわいそうなもんですね。寒い冬でも将校達は命令して見ているだけで、部下にはふんどし一丁で海に入らせたり上がらせたり、また入らせたり上がらせたり…。「いままでさんざん痛めつけておいて、見つけたら叩き殺してやる!」と怒っている人もいました。

 私たちが知ったのは、二日後の十七日です。漁師の奥さんがサクランボをとりに基地の中に入ってきて話したとき、「あんたら知らんのかいな! 日本は戦争に負けたよ!」と聞きました。その時はなぜか「よかった」とか「助かった」というような気持ちは湧かず、「しゃーないな。荷物はあるしどうして大阪の家に帰ろうか…」と、そのことばかり考えていたように思います。

 他の若い者も同じようでしたが、年寄りの兵隊だけは喜んでいましたね。待っている家族のことなどがあったんでしょうかね。

家族のもとへ

数日後土地の人からリヤカーをもらって荷物を積み、四人で沼津駅まで二十キロほどを歩きました。終戦の混乱で汽車は切符も買わずに乗れました。有蓋貨車に乗り込み大阪に向かいましたが、将校連中がたくさん乗っていました。

 当時家族の住んでいた岸和田に帰って数カ月してから、やっと「戦争がおわってよかった!」と、じわっとうれしく感じるようになりました。戦争嫌いだったのになぜなんでしょうかね? 自分でもよくわかりません…。

戦争責任

 戦後になって天皇が戦争責任はなかったと聞き、「これは世の中おかしいと違うか!」と、天皇の命令に従って戦争してきた者として理屈でなく純粋にそう考えるようになりました。

 いっしょに働いていた労働組合の人が「天皇が戦争責任がないなんて、そんなバカなことがあるかい!」と怒っているのを聞き、「ぼくと同じことを考えているんだ」と、うれしく感じたことも覚えています。

 「天皇陛下万歳と言って死ね」という教育ばかりを受け、「米英両国と戦争状態に入れり」と言ったのも天皇だし、「どんな辛抱してでも頑張らないといけない」と言ったのも天皇だし、戦死した二人の兄に赤紙をよこしたのも天皇だし、ビンタやバッタがやられたのも天皇の名のもとであり、それなのに何で責任がないのか腹が立って仕方がなかったです。

 この話は子にも孫にも何度となく話しており、よく分かってくれています。(次号に続く)

『憲法九条だより』第18号(2012年9月30日)から

2012年6月4日月曜日

戦争体験を語る:「どんな理屈をつけても戦争はみじめなもの」——三池尚道さん



上・三池尚道さん

 私は一生懸命働き、貧乏な生活をして頑張ってきましたが、子や孫たちは立派になってくれたし、よくしてくれるし、恵まれています。戦争時代のことを話してやると、「じいちゃん、大変やったんやね!」と、よく聞いてくれます。本当に感謝して過ごしています。いまの願いは、若い人たちに私たち戦争経験者の気持ちを分かってほしいということです。そして日本の平和を守ってほしいと思います。どんな理屈をつけても戦争はみじめなものですわ。平和を守るためにお役にたてるならと思い、体験したことを話してみます。

小学校や会社でも軍事教練

 私は昭和2年、男ばかり5人兄弟の4番目として生まれ、大阪市福島区海老江で育ちました。当時から体は大きかったので、相撲は強かったですね。しかし、戦争ごっこはなぜか嫌いでした。尋常小学校の上級生になると軍事教練がありましたが、熱心にはやりませんでした。

 学校を卒業し、昭和16年4月、此花区にある住友金属に入社しました。ここでは、午前は工場内の学校で勉強をし、午後は仕事という生活でした。こここでも軍事教練があり、私にとってきびしくきついものでした。ほふく前進したり、銃を担いで走ったり。横山(いまの和泉市)の山中で特別野戦訓練という、ひどい訓練を一週間もやらされたこともあります。ここでもますます戦争嫌いになりうっとうしくなっていました。

仲間の『資本論』携行で特高警察に

 その頃こんなことがありました。その日は何かの理由で昼で仕事を終わり、20人ほどで朝日橋を歩いている時、特高警察に「おいこら!」と呼び止められ、全員手錠やひもを掛けられ、此花警察に連れていかれました。何が何だかわかりません。取り調べが始まって分かりました。誰かがマルクスの『資本論』を持っていたそうです。それで「『資本論』を読んだやろ」と聞かれたが、当時の私はマルクスのマの字も知りませんでした。「知らない。読んでない。」と何度いっても「嘘つけ!読んだやろ!」と決めつけて、こちらのいうことは聞きません。夜中になって、4人を除いて帰してくれました。その4人がその後どうなったか、会社には二度と来ませんでした。

16歳で海軍予科練志願、死ぬ覚悟

 学校の先生は私が戦争嫌いなことが気に入らないらしく、私にだけ名指しで決めつけたように、「兵隊に行け!」と何度も命令のようにいいました。自分では行きたくないと思っていましたが、社会全体がそういう流れにあり、口に出して「いやです」ということもできず、当時「若い血潮の予科練の 七つボタンは桜に錨…」と歌われた海軍予科練(少年航空兵のこと)に志願してしまいました。16歳でした。このとき、「兄も戦死していたし、自分も死ぬことはしょうがないな!」と覚悟をしました。

 昭和18 (1943) 年3月末、茨城県土浦にむかい、海軍予科練14期生として入隊しました。軍隊の中はひどいものでした。何か上官の気に入らないことがあると、「ビンタ」と「バッタ」の嵐です。「バッタ」とは一列に並んで壁に手をつかせ、ズボンを脱いでお尻をつきだし、上官がその尻を叩くことです。はじめは青竹で叩きますが、何人かでバラバラに割れてしまいます。今度はツルハシの柄で叩くんです。しかも力いっぱい。どづかれない日はなかったですね。

軍隊の非人間的扱い

 治らないうちにまた叩かれるのですから、お風呂のとき見ると、みんなお尻が血豆で青くなって、固くなり、段がついていました。一人がへまをすると皆が叩かれるんです。辛抱しきれなくて夜間にトイレで、ベルトで首をくくって自殺した人が3名いました。自分もそんな気を起こしたこともありましたが、「しゃーない!」と、あきらめていました。軍隊とはこんな人間扱いしない所かと、ますます戦争嫌いになりましたが、もちろん口にすることは仲間内でも出来ませんでした。

 飛行機の練習は、「赤とんぼ」(写真参照)という練習機でやりました。どれも調子わるくて、空を飛んでいるとき、突然エンジンが止まったことがありました。ぐんぐん降下しているとき、セルを必死にまわしていたら、やっとエンジンが掛かって命拾いしたことがありました。もちろん落ちて亡くなった人もいました。


「赤とんぼ」こと、海軍93式中間練習機

 半年たった昭和18年9月に、岡崎(現在の三河安城市)に配属になりました。14期生の中には鹿児島県鹿屋基地や沖縄に特攻隊として配属されたものもいましたが、みんな死んだようです。岡崎で辛かったのは、雪の積もった飛行場で30分間の腕立て伏せでした。素手でやらされるのですから、手が冷たく、やがて感覚がなくなっていきます。途中でやめると、ツルハシの柄で叩かれ、半殺しにされました。ひどい訓練でした。食料については、ぜい沢はできませんでしたが、量は十分あり、終戦まで不自由することはありませんでした。

人間魚雷艇の訓練

 このころから練習するにも飛行機がない状況になってきました。そうするうち、昭和18年秋頃、14期生ばかり静岡の戸田(へだ)に配属されました(現在の静岡県沼津市戸田海岸)。ここの切り立った海岸沿いの山をくりぬいて、「丸大」の基地作りをすることと、訓練をすることが目的でした。「丸大」とは海軍独特の名前で、いわゆる敵船に魚雷を抱いて体当たりする一人乗りの人間魚雷艇のことでした。(次号に続く)

『憲法九条だより』第17号(2012年5月10日)から

2012年1月9日月曜日

戦争体験を語る:「内地の人には、申し訳ないような話です」——野村厚夫さん


鳳東町・野村厚夫さん

獣医が夢

 私は少年兵として戦地に行きましたが、怖い・苦しい体験話はありません。敵の飛行機も船も兵隊も見たことはありません。食べ物も着るものも不自由したことはありません。そんなんでお役にたてるかどうか不安ですが、[体験を聞かせて欲しいとの]お話をもらってから思い出してはメモをしてきました。

 私は大正15年4月3日、桜島のふもと、鹿児島県垂水市8人兄弟の5番目で生まれました。経済的に恵まれ、何の苦労もなくのびのびと育ちました。特に楽しみなのが家で飼っていた牛や馬や豚や鶏を世話することでした。裸馬に乗って駆け回ることも大好きでした。時々さっそうと馬に乗ってやってくる獣医さんに憧れていました。

 尋常高等小学校を卒業し、親や先生の勧めで技術院養成所に入りましたが、獣医になる夢が捨てきれず、そこをやめて単身で支那へ渡り、南京ちかくの鎮江にある陸軍獣医務下士官候補者隊に入隊しました。看護婦のような手伝い仕事で、ここにいても獣医にはなれないと分かり、1年程してから少年兵として志願しました。

恵まれた軍隊生活

 このころは戦況も悪く、出征を送り出すばかりの自分が恥ずかしい気持ちになっていたことがありました。志願して出征することは死を覚悟することでした。親に相談すると「好きにせい」と、反対はありませんでした。

 昭和20年2月に入隊し、北朝鮮、会寧にある陸軍14飛行教育隊に配属されました。近くを豆満江が流れており、そこでやらされたことは、毎日のようにツルハシとスコップで壕掘りするばかりでした。飛行場はありましたが、飛行機はなく、通信・整備の勉強を雨の日には若干しました。飛行機に触れたのは2~3回だけでした。

 ここの中隊長はお寺の坊さんと聞きましたが、とってもよい人でした。隊内でビンタとかいじめもありませんでした。ただ、戦陣訓の暗唱が命じられていて、覚えていない人は叩かれているところを見かけました。帰ってから他の人に聞いて分かったのですが、私の軍隊生活は本当に恵まれていたと思います。

勝てるとは思えない

 教育が終わり、それぞれ各地に配属され、私は隣にあった飛行隊になりました。ここも飛行機はありませんでした。飛行場にムシロを飛行機の形におき、上からペンキを塗り日の丸を描き、飛行機があるかのように偽装し、近くにタコツボを掘って機関銃を据え「敵が来たら反撃するように!」言われましたが、敵が来たことはありませんでした。こんな子どもじみたことをしているようでは、この戦争を勝てるとは思えませんでした。

 8月9日、ソ連が参戦し、清津では艦砲射撃がはじまったと聞き、部隊ごと逃げることがうわさされ始めました。8月13日、会寧駅から食料など何でも積んで、70~80人の部隊ごと貨車で移動を始めました。日本が負けることを予想しての行動だと思いました。汽車はソ連の飛行機に見つからないようにと、夜間だけ走りました。敗戦前日の8月14日夜、同乗していた報道関係の人から、「日本は負けた」と聞きました。部隊長は「でたらめだ!」と怒っていました。

少しでも日本に近い方へ

 8月15日朝、朝鮮人がわれわれの貨車に向かって「朝鮮独立万歳、独立万歳!」と叫びながら、貨車にぶら下がったり、石を投げたりしてきました。汽車は引き込み線で平城飛行場の兵舎に入りました。飛行機で逃げる話もありましたが、ソ連が南下しており、上空にはソ連機が飛んでいる連絡があり、少しでも日本に近い方へ逃げようと、朝鮮人の運転手と交渉し同じ貨車で南下しました。

 8月16日朝早くに大田駅まで逃げてきました。ここで銃や武器を返納させられましたが、特に危険を感じることはありませんでした。駅近くの女学校に入り教室に宿泊し、10月まで1ヵ月半滞在しました。ここでの生活は、日本でご苦労されていた人たちには申し訳ないような、贅沢に過ごした期間でした。貨車に積み込んできた物資で、さんざん食べ放題、飲み放題、演芸会や運動会や相撲大会などもあり、楽しくブラブラしていました。町へ出かけるのも許可されていました。どうしてこんなにさせてくれたのか、今考えても不思議です。

 10月12日に女学校を出て、一般の汽車で釜山に向かいました。そのとき布団袋を半分に切り、糸と針を使ってリュックを作り、毛布や毛糸の肌着やお米、砂糖は枕カバーに詰め込んで、持てるだけもって汽車に乗りました。こんなことができたのは私たちの部隊くらいだと思います。

戦争の犠牲となった少年たち

 先の戦争は間違っていたと思います。私が考えても勝てないことは分かったのに、戦争を始めて多くの国民が犠牲になりました。戦後、梅田の地下に靴磨きの浮浪児がたくさんいました。国が始めた戦争の犠牲となったこの少年たちを、なぜ国は面倒見てやらんのだろうと、怒りのようなものを感じたことがありました。

 昭和18年と19年に長兄と次兄が戦死しました。長兄が招集されたのは35歳で、結婚して子供も2人いました。農業指導員で、ミカン農家に大変信頼され、社会的にも期待されていました。父親もこの時だけは涙を流して悲しみ、見ていて辛いほどでした。

 戦争は絶対にしてはいかんです。犠牲になるのは弱い国民です。しかし、他の国に侵略されたくないから軍備は国を守るために必要だと思います。戦争させないためにも必要だと思っています。

(インタビュー2011年12月8日、小倉・荒川)
(『憲法九条だより』16号、2012年1月1日から)

2011年9月19日月曜日

戦争体験を語る:鳳中町 岡島傳兵衛さん



「忘れよう忘れようと生きてきました」

 私は明治44(1911)年10月、大阪なんば千日前に生まれました。近くには洋館になる前の精華小学校や幼稚園、当時評判の「洋食の自由軒」もありました。通称鴈治郎横丁を出た通りの向かいの路地にわが家はありました。

 学校を卒業し、当時演劇の興行をやっていた宗右衛門町の松竹株式会社に入社しました。やがて戦争が激しくなり演劇どころではない時代になりました。空襲や機銃掃射にも何度もあいました。将来のことを考えた末、そこを辞めて、友達の紹介で高田アルミ(後の昭和アルミ)に就職しました。終戦後も働き、定年まで勤めることができました。

 結婚をして30歳を過ぎた頃、赤紙が来ました。20歳の時、徴兵検査を受けていましたが、兵隊には行っていませんでした。なのに赤紙1枚で兵隊です。所属は呉海軍の水兵ですが、行き先は「大阪退避」として、大阪市杉本町の大阪市立大学にある兵舎でした。入隊式もありませんでした。毎日毎日、訓練と馬の世話でこき使われたことを覚えています。戦地に行くことはありませんでした。

 昭和20(1945)年3月13日、夜半から始まり未明まで続いた大阪大空襲で、自宅と何もかもが焼きつくされました。わが家はスッカラカンの裸にされてしまいました。自分の幼いころの写真や家族の写真さえ1枚も残っていません。そのとき杉本町の兵舎にいて「空襲でなんば辺りが全焼した」と聞き、翌朝だったと思いますが、上官に車で連れて行ってもらいました。家の形はなく、見渡す限り焼け野原で、灰や焼け焦げたものが一面に広がっており、自宅のあった場所さえ判りませんでした。

 偶然、自宅にあった大きな鉄製の火鉢の取手部分が灰の中から突き出ているのが目に止まり「ここが自宅跡」と分かったのでした。幸いに家族は逃げて全員無事でした。しかし、住むところがなく、寺町筋のお寺に終戦までお世話になりました。自宅の焼け跡は、何が何だかわからないうちに他人が占拠してしまい、土地まで盗られてしまいました。

 戦争中は、ほかにも食べ物は少なくまずい、着るものは少ないなど、口にしたくないような嫌なことがいろいろ多くありました。そんな苦労をしたことは考えたくもなく、できれば心に蓋をして忘れたいと思い、忘れよう忘れようとしてきました。それほどいやな時代でした。若い人にいまさら辛い時代のことをお知らせしても、ピンとこないのではと思っています。

 戦争は喧嘩だし人殺しだし、自分の意見を押し通そうと「原爆を持たないとうまくいかない」という人もいますが、こんな競争をしなけりゃ平和が保てないのでは、キリがないことです。どっちかが折れないとうまくいかないし、大変なことになります。若い人たちはもっと戦争の本当の姿を知らないといけないと思うのですが、まず怖さを知ることだと思います。戦争だけは二度としてはいけません。

 私はあと4ヵ月で100歳の誕生日を迎えます。自分でもまさかと疑う年をとってなお、これといった病気もなく、こういう毎日が送れることは、ありがたいことだと感謝しています。いまは娘やヘルパーさんに親切にしてもらっており、いつの間にか、若いときには口に出てこなかった「すまないね」「ありがとう」がスッと出てきます。うれしいことですな。

 戦争体験は相当昔のことだし、つらい時代だったし、忘れよう忘れようとしていたからか、細かいことは思い出せません。こんな話でもお役にたてるんでしょうか。

(インタビュー、小倉・荒川、2011年6月1日)

2011年5月24日火曜日

戦争体験を語る:「地獄の時代でした」

鳳東町・佐竹文雄さん


 この年まで生きてきて、いま幸せです。家内と二人で毎日を感謝しながら、先祖供養もしっかりやりながら、喜んで過ごさせてもらっています。それにくらべ、戦争中は地獄の時代でした。エーこともない、楽しいこともない、悪いことばっかりで思い出しとうない。以前から戦争体験談を頼まれていましたが、断り続けていました。家内や子どもたちにも話したことはない。戦争時代の写真などもいつ頃だったか全部捨てました。わが家には結婚式以後の写真しかありません。

 わたしは大正11年6月10日、香川県多肥村(現在の高松市多肥)の農家に生まれました。昭和12年、尋常高等小学校(今の中学校)を卒業して、大阪船場の綿布問屋の住み込み丁稚奉公に出ました。3年後の18歳の夏、馬場町の砲兵工廠に徴用され山砲の薬きょう作りをさせられました。20歳の夏、本籍地の多肥村で徴兵検査を受け、甲種合格となり、翌3月1日、福山の陸軍41連隊に入隊し、きびしい訓練がはじまりました。毎日毎日銃をかついで歩いたり走ったりの行進や、ほふく前進、山に入って敵味方に分かれて競争したり、そして、何かあるごとに容赦のないビンタの嵐。

 半年ほどして朝鮮の平壌へ配属となり、南方戦線帰りの部隊と合流しました。まず歩哨をやらされ、マイナス20度にもなる平壌の冬は、外套2枚着ていても冷えて、ジッとしておれない程でした。そのあと、酒タバコなど売る業者を束ねる酒保勤務のとき、腸チフスにかかりました。当時ほとんどの人が死ぬ病気で、自分も覚悟をしていました。痩せて痩せて骨と皮状態になったが、3カ月ほどして幸運にも治りました。元の中隊にもどってしばらくして、軍医から「1回死んだんだからここに行きなさい」と、宮崎県川南町にある陸軍118部隊に配属されました。22歳の春でした。平壌から船で博多へ。日本の匂いがして嬉しいことでした。

 宮崎駅には朝着きました。天気がよくて、飛行機からキラキラした美しいものが降りてくるのを目にしました。落下傘部隊の訓練でした。希望を聞かれたとき、このときの印象で、ばかなもので「熱望する」と書いてしまいました。落下傘部隊は敵のど真ん中に降りて戦うだけに、ほとんど死ぬと言われていたのに、自分は怖いとは思いませんでした。入隊したときから、生きて帰ることは頭になかったからだと思います。そこまで思い込まされていたことは、いま考えると恐ろしく思います。

 配属が決まってからはエライ目に遭いました。演習といってもほとんど走るばっかり。他には、障害物に素早くかくれる、身体にロープを結び、高い松の木に滑車で引き上げられ、放して落とされる、2階の窓から下に敷いてある2枚のマットめがけ両手両足をバンザイの形にピンと伸ばして飛び降りる、などやらされ、中には手足の骨どころか首の骨を折った人もいました。自分は2階からの飛び降りが「見本や!」と、上官に何度も褒めてもらいました。

 そのうちに飛行機に乗せられ、実際に上空から飛び降りる演習をやりました。はじめて飛び降りるときの恐ろしさは、何というか言いようのないものでした。1・2・3で一人、1・2・3でまた一人と、切れ目のない掛け声とともに、上官にケツ叩かれ飛行機から飛び出します。ためらって少しでも遅れると、ケリ落とされた人もいました。数秒後、落下傘が開き、大きな衝撃がくるとホットします。上を見上げるとニコッとしている後続者の顔が見えました。ただ降りるだけでなく、実戦さながら弾薬を腹に巻き、銃を入れた袋を脚に括りつけ、両手で落下傘を操作します。5回この降下演習をしましたが、落下傘が開かず死亡した人も一人いました。

 この陸軍落下傘部隊は優秀な部隊で、有名なパレンバンの戦いに参加した兵隊もいました。この部隊は5月末に出動したのが最後でした。飛行機がなくなったと聞きました。朝動員が来て編成され、昼には出発しました。どこに向かったのか、一切発表はありませんでした。硫黄島全滅の後であり、沖縄らしいとの噂はありました。新聞にも「日向部隊(落下傘部隊のこと)出撃」の記事が最後で、以後のことは一切載りませんでした。飛行機のないわが落下傘部隊は、山砲の班に編成され、馬の代わりに山砲車を曳く演習をしたり、次は家を壊して半地下の大きな壕を掘ったり。この頃になると、大本営発表もウソついてるし、空襲されても反撃に飛び立つ飛行機もないし、この戦争は負けると感じていました。

 8月15日、練兵場で軍装し整列してラジオを聞きました。雑音で何を言ってるのか分からず、連隊長は「しっかりやれと言ってるぞ」と説明していました。友達が「日本は負けたぞ!」と教えてくれました。このとき「助かった。これで帰れる、嬉しいな!」ばかりで、負けて悔しい気持ちはなかったと思います。部隊の中には腹を切るとか山にこもって最後まで戦うと言ってた人もいましたが、実際にはそうした人は一人もいなかったと聞きました。

 いまでも世界中で争いや戦争は絶えません。戦争とはどんな理屈をつけようと殺し合いには違いない。絶対にいかんことだと思います。

(聞き手と写真・小倉)

2010年3月14日日曜日

お知らせ:「戦争体験を語る」記事

「戦争体験を語る『ただただ、こわかった空襲!』鳳中町・辻尾俊貞さん」を本会の 第1ブログサイトに掲載しました。