2013年1月31日木曜日

"政府は謝罪と補償を":大阪空襲訴訟、原告21人が上告

 太平洋戦争末期の大阪大空襲などで甚大な被害を受けた被災者・遺族に国が救済や補償を怠ったのは憲法違反として、政府に謝罪と補償を求めた原告21人が、1月29日、請求を棄却した大阪高裁判決を不服として、最高裁に上告しました。1月30日付け『しんぶん赤旗』がこれに関連して伝えている内容を、以下に紹介します。

 大阪空襲訴訟原告団・弁護団は同日声明を発表しました。声明は、1972年に最高裁大法廷が表明し、87年の名古屋空襲訴訟の最高裁判決でも繰り返された「戦争被害は国民すべてが等しく受忍(我慢)しなければならない」とする、いわゆる「受忍論」を復活させたと、大阪高裁判決を批判しています。「受忍論」は、大阪地裁判決や東京大空襲訴訟の東京地裁・高裁判決では採用しなかったという流れになっていましたが、大阪高裁判決はこれを無視したのです。

 声明はまた、軍人や軍属らを補償対象とする一方、援護法の対象外とする空襲被災者との格差は、今後も拡大し続けると指摘しています。そして、判決が「原告らの思いに応えるものとは到底言えない」と述べ、「今後最高裁で、さらなる努力を続ける」と決意を表明しています。

 原告団代表世話人の安野輝子さんは、「5年間無我夢中でたたかってきました。最高裁で原告が期待している結果を得たいと上告しました」と語りました。

 ——補償に格差のある事実に注目すれば、「受忍論」に根拠のないことは、火を見るよりも明らかではありませんか。

多幡記

2013年1月29日火曜日

九条の会事務局が記者会見:4氏メッセージ発表

 昨年12月の総選挙の結果、自民・公明両党だけで衆院の3分の2を占めて第2次安倍内閣が成立し、これに日本維新の会、みんなの党が改憲で連合する状況のもとで、「九条の会」事務局は1月28日、国会内で記者会見を開きました。『京都新聞』(記事「沢地さん『憲法9条最大の危機』:九条の会、大江さんら訴え」)や『しんぶん赤旗』(記事「九条の会、3月に学習講演会:事務局が会見」)が報じました。

 後者の記事によれば、記者会見では、九条の会事務局と九条科学者の会の共催で3月3日に、学習講演会「憲法9条の新たな危機に抗して」を開くことが発表されたということです。講演会では、法政大学の五十嵐仁教授(政治学)による「日本政治の右傾化と憲法の危機」と、大阪市立大学の松田竹男特任教授(国際法)による「ここが危ない! 集団的自衛権」の二つの講演が行われます(講演会の詳細はこちらに既報)。

 記者会見では、また、「九条の会」の小森陽一事務局長が、「改めて全国で7千を超える草の根『9条の会』が今こそ運動を活性化させ、運動を強めていきたい」と述べました。さらに、「九条の会」呼びかけ人の4人のメッセージも発表されました。各氏のメッセージの大要は次のように報じられています。

 作家の大江健三郎さん:まったく新しい全国規模での大きい運動を、もうすでに老年の呼びかけ人のひとりとして、なによりも祈念します。
 憲法学者の奥平康弘さん:安倍首相が打ち出すはずの集団的自衛権行使の可能論(解釈による憲法改正)を断々固として拒否しましょう。
 哲学者の鶴見俊輔さん:今度の選挙の結果をみると、九条の会の働きは、これまで以上に大切になると思います。
 作家の澤地久枝さん:全国に9条を守ろうという市民のつながりが生まれ、それは反原発の流れに重なりました。選挙結果に振りまわされず、新しい市民社会に希望をつないでゆきましょう。

多幡記

2013年1月25日金曜日

「九条の会」メルマガ第157号:安倍政権の危険な動きが始動

 表記の号が2013年1月25日付けで発行されました。詳細はウェブサイトでご覧になれます。運動に活用しましょう。以下に、冒頭の重要記事と編集後記を引用して紹介します。なお、メルマガ読者登録はこちらでできます。
前号予告の九条の会事務局主催「学習会」は会場が変わります。主催も「九条科学者の会」と共催になります
  • 集会名称:九条の会事務局・九条科学者の会共催 学習会
  • テーマ:憲法9条の新たな危機に抗して
  • 日時:3月3日(日)13:30~17:00(開場は13:00で、13:15からオープニングアクト「ベアテ・シロタ・ゴードンさんを偲んで『映画 日本国憲法』の一部上映」があります)
  • 会場:明治大学駿河台キャンパス・リバティタワー大教室(JR御茶ノ水駅お茶の水橋口下車、地図はこちら
    講演1「日本政治の右傾化と憲法の危機」五十嵐仁氏(法政大学大原社会問題研究所教授・政治学)
    講演2「ここが危ない! 集団的自衛権」松田竹男氏(大阪市立大学特任教授・国際法)
    講演者から質問への回答 コーディネーター小澤隆一氏(東京慈恵会医科大学教授・憲法学)
  • 参加費:500円
  • 共催:九条の会事務局、九条科学者の会
編集後記~安倍政権の危険な動きが始動しています
 報道では第1次安倍政権の失敗を教訓に、参院選が終わるまでは改憲問題などを急がず、アベノミクスと呼ばれる経済政策の推進などに集中するかのように語られますが、どうしてどうして、改憲派でかためた政府・与党はじっとしてはいられないようです。アルジェリアのテロ事件を口実に海外派兵が可能なように自衛隊法を変えようとしていますし、2月に予定される訪米ではオバマ大統領に「集団的自衛権の解釈変更の決意」を手みやげにするようです。大阪での体罰事件なども使って教育政策の一層の反動化も狙われています。私たち「九条の会」としても見逃すことのできないような動きが相次いでいます。しっかり学びあい、いっそう多くの人びととの対話の運動をすすめるときではないでしょうか。3月の学習会への積極的なご参加をお願いします。

2013年1月22日火曜日

戦争体験を語る:辻尾俊貞さん

「ただただ、こわかった空襲!」
鳳中町・辻尾俊貞さん
 この記事は、2010年3月13日付けで本会第2ブログサイトに掲載したものの転載です。(第2ブログサイトはいずれ消去する予定です。)
I

 私が6歳の時の経験です。ただただ「こわかった!」という想いは、幼い時ながら今でもありありと覚えております。とはいってもまだ幼稚園に入る前のことです。その時考えていたことや具体的なことになると、記憶がとびとびであったり、あやふやであったり、見たのか聞いたのか後で知ったのかなど、不明確なところが沢山あります。不明確なところは極力除いてお話しさせてもらいますが、そんなんでお役に立てるかどうか心配ですが聞いてみてください。

II

私の家は鳳駅西口を出たところにあり、7人家族でした。父は軍隊に入り森の宮で食料調達係りをしていたようで、家にはおりませんでした。その日、昭和20(1945)年7月9日はいろいろありました。空襲警報が鳴り、爆撃機の機銃掃射があり、電車の客が走って逃げてきて、私の家の縁の下に隠れることなど何回かありました。夕方は西南方向の空が真っ赤っかとなり、和歌山が空襲と聞きました。

その夜中です。母の大きな声に起こされました。空襲警報が鳴り響いていました。1回目攻撃の始まりでした。外に出ると空襲は始まっており、焼夷弾の落ちるのが花火みたいで、「きれいだなー」と見とれてしまったことを覚えています。すぐに屋敷の中にある防空壕に逃げ込みました。10人は入れる大きさで、隣の2家族も入っていました。入ってすぐ「駅の方が燃えだしたよ」と聞きました。

防空壕に逃げ込んだのは、母と1歳、4歳の妹と自分の4人で、叔父さん夫婦たちは「家が燃えたら火を消さないといかんから…」と入りませんでした。1回目の空襲が終わったとき、「ここにいては危ない!」ということで、母は1歳の妹を背負い、両手に4歳の妹と自分の手を引っ張り、さらにトランクを1個持って、浜寺公園めざして逃げました。

このトランクで笑えない話があるのですが、いざという時持って逃げるように日頃から通帳など貴重品を入れて準備していたようです。この日、前回出していたことを忘れて慌ててそのまま持ちだし、浜寺公園について開けたら靴下一足だけ入っており、母は悔しがっていました。

話を戻して、わが家を出て家々がごうごう燃えているそばをぬって走りました。今の星野医院のところまで来たとき、(そこは当時芋畑でした)頭の上から焼夷弾の雨が降ってきました。それも上からではなく、後ろから斜めに追いかけてくるように降ってくるのです。後ろを見ながら前に進むのです。それでも耳元をかすめるようにビュンビュンと降ってきました。一人に当たったところを見ました。逃げるのにけんめいで、人をかまってる余裕もありません。途中、野田共同墓地まで来ると、家もなくそこで空襲がやむまで待ち、そのあとまた歩きだし、やっと着いた浜寺公園で夜を明かしました。

朝になって歩く帰り道、「鳳駅前は焼けて、全滅です」と聞かされ、途方にくれていましたが、墓の前の木寺さんの家が残っており、そしてわが家も焼け残っていると聞き、嬉しくなりました。本当に残っていました。鳳中町で40軒たらずが焼け残ったと聞いています。

III

これからは家に帰ってから見たり聞いたりしたことです。わが家には爆弾2発と焼夷弾12発が落ちました。爆弾1発は井戸の中、もう1発は裏の道に落ちて爆発し、隣が丸焼けになりました。焼夷弾は、家の中には5発で、廊下に2発、畳に1発、天井裏に1発、風呂に1発、あとは庭でした。家の中の4発はいずれも屋根や天井も突き破り、仏壇の前や床の間や部屋に落ちて燃え上がりました。焼夷弾というのは油が燃えるので周りがベタベタです。廊下はどろっと油が流れて燃えていたそうで、燃え跡が広がっています。そのとき叔父さん夫婦は、「庭の池の水をバケツで汲んで消したんだよ!」と自慢そうに話していました。どうやら焼け残った家は、火が付かなかったのでなく、消火に成功したところが多かったようです。

当時の鳳には水道はなく井戸水で生活をしていました。しかし火事などのとっさのとき井戸水を汲んでいたのでは間に合わず、役に立ちません。当時の「防空訓練」では、風呂の水を抜かずにおいて、いざと言うとき消火に使うことが奨励されており、初期消火にそれも役に立ったようです。後になって、わが家の池の水が家を守ってくれたようなものだと聞かされ、代は変っていますが、今でも大切にしています。空襲の残骸としてわが家に、焼夷弾の不発弾と焼夷弾の傘とカラの焼夷弾が残っていましたが、間もなく軍が取りに来て渡したそうです。その後出てきた爆弾は今でも記念に残しています。写真を見てください。

写真1 庭の池。この池の水のお陰で、焼夷弾で火のついた
家を守ることができたと、今でも大切にしています。

写真2 仏壇のあった部屋。ここの天井を破って焼夷弾が落ち、
燃え始めましたが、叔父さんたちがバケツで消しました。

写真3 傷痕のある床。ここにも焼夷弾が落ち、板に傷痕が残っています。

写真4 燃えた襖。この部屋に落ちた焼夷弾が燃え、この襖の
一部を焦がしました。その部分に紙を当てています。
父親の描いた襖で、大切にしている作品です。

写真5 写真6 焼夷弾の油が燃えながら流れ、その痕が今でも黒く
残っています。木が焼けているので拭いても取れません。

写真7 庭で見つかった砲弾。戦後見つかりましたが、いつ、どうして庭にあった
のか不明。そのまま記念に保有しています。サイズは、高さ26×底8.5センチ。
弾薬の穴2.5センチ。重さは6.8キロありました。

後日同居の叔父から聞いた話です。この日の空襲は、野代から始まり、鳳駅から、でんでん坂に沿って、軍需工場だった旭精工までのコースでした。でんでん坂にある野田だんじり小屋も燃えましたが、地元の人たちと近くにいた兵隊さんたちが地車を引き出して助かったそうです。地車はその後取り替えた屋根以外が今でも黒くすすけているのは、この空襲とその後いっとき野ざらしとなっていた時の痕だそうです。

7月10日だったと思いますが、朝、家の前の鳳駅ホームを駅員さんが走り回っており、電車の中からどこで燃えたのか焼死体を一体ずつ引きずり出して、大きな缶の中に放り込んでいたのを見かけました。

これも同じ日の朝だったと思うのですが、和歌山から石油を積んできた貨物車が、当時複線だった羽衣線鳳駅から少し羽衣よりに停車していて、火が出ていました。相当長期間燃えていたのを見ました。

母の里が和歌山県橋本市で、そこに何度か疎開したことがあります。そこでのことですが、橋本駅の近くの池で4、5人で泳いでいるとき、突然飛行機が現れ、こちらに機関銃をバリバリと撃ちながら向かってきました。近くにいたどこかのおじさんが池に飛び込み、ぼくの足を引っ張って沈めました。近くを玉がぴゅんぴゅんと水の中を飛んでいきました。幼いですから、機関銃で死ぬということが分っておらず、池に沈められたことの方をこわく感じたことを覚えています。

この時、橋本駅も攻撃を受けました。国鉄と南海線の渡り陸橋側壁にその弾の傷跡があるのを見に行ったことがあります。何年か前にもまだ残ってましたが、現在もあるかどうかは分かりません。

当時、米は配給で、かってに売り買いすることは禁止され、見つかると警察に取り上げられ、罰せられました。当時の警察はとても威張っており、取り締まりも厳しいものでした。それでも足りないので、ヤミ米といって田舎に買出しに行きました。見つからないように風呂敷に入れ、腰にくくり、その上にねんねこで赤ちゃんをおんぶして、見えないようしていました。ある日、母と買出しに行き、南海高野線で和歌山から帰る途中の紀見峠トンネルをぬけたところで、機銃掃射にあい、列車がトンネルへバックしたこともありました。

IV

空襲のあと、近所で家をなくした4世帯がわが家でいっしょに生活するようになりました。家ができるまでの間ということで、人数はわが家の7人を含め22人と覚えています。一家族一部屋でぎっしりいっぱい、食料はすべて出し合い分け合って仲良く助け合い、炊事もひとつの鍋で一所にして、わいわい言いながら家族みたいにしていましたが、いつもお腹はすかしていました。芋のつる、大根の葉っぱなど、食べられる草で団子を作ったりして、なんでも食べた記憶があります。それでも、そんなに苦労したという気持ちはありませんでしたが、親たちは大変だったろうと思います。同居は長い家族で1年半ぐらいだったと思います。

同じような助け合いは他にもあり、貸家2軒のうち1軒が全焼しました。残った1軒に3家族が同居し、それが2年ほどは続いていたように思います。

幼稚園に入る年になっても幼稚園がなく、いきなり小学校入学でした。鳳駅東口前のコクサイパチンコのある場所にあったのですが、空襲で燃えてしまったのです。その後しばらくして、鳳小学校講堂(現在の体育館)の中に仕切りをして、幼稚園としていた頃もありました。また現在の鳳南地域会館の場所に移ったこともありました。その後現在の場所で開園されました。

鳳小学校は空襲にはあいませんでしたが、なぜか教室が足らず、1年生が午前、2年生が午後というような、変則な授業が1年間ほど続いた記憶もあります。また、理由は分かりませんが小学校1年生のときに、教科書が手に入らず、近所の先輩の教科書を借りてきて母がざら紙に書き写し、それを教科書にして勉強したこともありました。なぜかその教科書をその後も大切にしていて、探せばまだ家のどこかに残っていると思います。

V

恩師である大学の元教授は廣島の被爆者でした。その時、暑いのでトラックに下にもぐり寝ていて丁度陰になり助かったそうです。もちろん被爆者手帳はもっていました。何度も原爆資料館へご一緒して、よくお話を聞きました。自分でも足を運んで手をあわせたこともあります。

幼い頃の、ただただこわかった体験と、恩師のような出会いを重ね平和の大切さと人と人が殺しあうことはあってはならんことの思いは強くなってきております。憲法九条をなくして戦争への道を進むなんてもっての外で、大切に守ってほしいと思っています。

(辻尾俊貞さんは、現在、鳳校区自治連合会会長の他、地域役員を歴任中)
[インタビュー・2009年12月23日、写真と文・小倉
「憲法九条便り」NO. 11(2010年4月1日)に短縮した形で掲載]

2013年1月20日日曜日

大阪大空襲訴訟:被害者の賠償請求、大阪高裁が非情な控訴棄却

 1945年の大阪大空襲など、米軍による五つの本土空襲の被災者ら 23 人が国に謝罪と計約 2 億 2000 万円の賠償を求めた集団訴訟の控訴審判決が 1 月 16 日、大阪高裁でありました。坂本倫城(みちき)裁判長は、原告の請求を退けた 1 審大阪地裁判決を支持し、原告側控訴を棄却し、「補償の対象範囲は立法裁量に委ねられ、補償を受ける者と原告との差異は著しく不合理とは言えない」と述べました(毎日新聞朝日新聞など)。原告の安野輝子さんは「非情な判決だ。被害を受忍せよとは、とても納得できない」と落胆したと報じられています(毎日)。

 この訴訟に原告の人々を支える活動を続けて来た本会世話人の浅井千代子さんは、次のように述べています。

 「16日、大阪空襲の裁判傍聴に参りました。席につかれたと思ったら、「棄却」と一言、黒い衣をひるがえして、忍者のごとく退席した裁判官。この国の実像です。疲れて帰って参りました。」

 後日の追記:大阪空襲訴訟原告団・支える会のブログに、1月18日付け記事「怒りの高裁判決」が掲載されました。

多幡記

2013年1月18日金曜日

投票


浅井千代子(本会世話人)

夫入院中の
病院通いの一日
期日前投票に行って来た
ブレない党のブレない候補者
これ迄一度もブレることなく投票してきた
渡された投票用紙に
鉛筆を握り締め
しっかり大きく
ブレない字で
祈りを込めて
—原発は 0
—憲法九条改悪許さない
—TPP 通してはならない
—沖縄を初めとする米軍基地を撤去しこの国を本当の独立国に
—政党助成金を廃止
—一日も早く被災地の復興を
—弱者障害者の権利を守り保障する
—小選挙区制の不合理を直ちに改める
溢れる思いは
小さな紙からはみ出し
爆発しそう
これからも決してブレない

投票は
小さな私が出来る
大きな権利行使です

『異郷』第23号(2013年1月)から
イメージは浅井さん自作の9条バッジを写し込んだ写真葉書

2013年1月16日水曜日

長い一日


浅井千代子(本会世話人)

入院の用意は出来ているのに
しんどいと言いながら
—病院へは行かんよ—
—入院はせえへんで—と
頑固なんて全く似合わないのに
熱はないが呼吸が乱れ何より血痰が心配
手遅れにならない内にと促しても糠に釘
四日目とうとう観念救急車のお世話に
早速酸素吸入の応急手当を受け
漸く安堵の吐息
今回で三度目である

以前同じ症状で肺炎入院し
カルテがある M 総合病院を希望したが
ベッドの空きがなく断念
ほうぼう当って下さって
縋る思いで市民病院へ
がここでも点滴と検査で長時間留まっただけ
再び別の救急車で移動
何とか受け入れてくれると言う病院へ向う
なんの事はないわたしが骨折入院し
この夏退院したばかりの B 総合病院
北から南へかなり遠方である

朝からの不安と緊張で
手術したわたしの足が言う事を聞かないが
付添いがヨタヨタしていてどうする
ここは無理にでも元気婆さんを演じる
そう言えば今日はクリニックでリハビリの日
でも これだけ動けばリハビリしたも同然

暦は間もなく師走である
日暮れは早く冬の闇が広がり始めている
救急室にはいった壗の夫が
ストレッチャーで出て来た
例によって管だらけ
別棟の個室へ荷物と共に移る
夫はすっかり安心した様子で
—こんなん長生きせんと早よ死んだ方がよろしい—
そして
若い看護婦さん達から
—そんなあほな事—とたしなめられている
ベッドに落ち着いた頃
遅い夕食が運ばれて来た
とろとろの粥に
ホーレン草のおひたし 高野豆腐と人参の煮付け サケの焼魚まだ温かい
そう言えば大急ぎで食べた朝食以外
胃の中はカラッポ
粥嫌いの夫はほとんど手をつけず
代りにわたしが平らげた

気がつくと帰りの交通機関は皆無
病院の送迎バスは 15 時が最終
主治医の O 先生がタクシーでと云ってくれたが
これから病院の支払いを心配しなければならないのにもったいない
帰っても一人
独断で泊まる事に
腰掛用の小さなソファーをベッド代りに
夜中転げ落ちないように脇にテーブルを添え
急ごしらえの寝床を作る
寝具がないので着のみ着のまま
夫のジャンパーが掛け布団代り
今夜はすぐ起きる態勢でと
丸くなり横になる
遠い日肉親の介護に
走り廻った日々を思い出す
養父 両親 叔父 妹
あの時分はまだ若かった
今や老々介護だ
でも………???
どうぞ二人合わせて自称半人前の日常に戻れますように

天井の白 壁の白 薄いベージュ色のカーテン
瞼を閉じると
ふんわり真綿のような白い雲が広がる
思っても見ない
長い長い一日の夜が
こうして更けてゆくのでありました

『異郷』第23号(2013年1月)から
挿絵・多幡達夫

2013年1月15日火曜日

4/13堺集会「I LOVE 9条 さよなら原発—落合恵子さんが語るいのち・平和・核」の成功と脱原発を訴える

 I LOVE 9条堺実行委員会では表記集いの成功と脱原発を訴える広告アピール募金へのご協力を呼びかけています。私たち福泉・鳳地域「憲法9条の会」も、昨14日の世話人会議で協力を決めました。以下に実行委員会の呼びかけ文を紹介します。(文は昨年11月に発表されたものですので、「昨年」、「来年」などとあったところを修正したほか、読みやすくするための表現修正も若干しています。文責・多幡)
 東日本大震災と原発事故から2年近くが経過しました。
 私たちは、2011年7月、池辺晋一郎さんをお迎えして、「9条25条をつむぎ今できることは何か」をテーマに、9条の集いを開催しました。9条と共に命の問題を考え、東日本大震災被災地に思いを馳せ、「ふるさと」の大合唱で集いを締めくくりました。
 あれから約1年半が経過し、大飯原発再稼働、福島原発周辺住民の余儀ない立ち入り禁止状態の継続、さらに大間原発の建設再開…と、震災に対応できなかった現実を忘れたかのような事態が進行しています。
 今、脱原発の市民の声は、平和を守る運動とのつながりを持ちながら広がっています。市民のいのちを守るためには、子や孫の世代まで、核をこの国に残すことはできない、との思いが広がっています。
 こうした中、2013年4月に、脱原発と平和の運動の結節点に立って活躍されている落合恵子さんを堺にお招きして集いをすることが決まりました。憲法9条を守りいかす世論を私たちが暮らし働く足元の地域や職場から広げて行くために、4月13日(土)に堺市民会館大ホールで開催します。今回のテーマは「さよなら原発—いのち・平和・核」です。
 この集いを成功させ、脱原発と平和の世論を広げて行くために、新聞紙上で「広告アピール」を掲載する取り組みを進めることとなりました。
 この取り組みの成功のためには、一口500円募金・4000口を上回る皆さんのご協力が必要です。
 思想・信条・支持政党の違いを超えて共同を広げていただき、ご協力をお願いします。
I LOVE 9条堺実行委員会
事務局 堺市堺区一条通20-5
銀泉堺東ビル6階
堺総合法律事務所気付
TEL 072-221-0016 FAX 072-232-7036

2013年1月13日日曜日

「『改憲』で刺激、避ける時」朝日新聞

 1月12日付け朝日新聞は、今月16日に同新聞社を退職する主筆・若宮啓文氏の執筆した表記題名の記事(アクセスにはログインが必要)を掲載しました。氏は次のように書いて、いま9条を変えることは危険であると説いています。
 かつて自民党の代表的な護憲派だった宮沢喜一元首相がこう語っていたのを思い出す。
 「この憲法を維持できるかどうかは周辺国の日本への態度によって強く影響される。同時に日本が改憲で違った道を歩むかどうかによっても、その対応は変わるでしょう。日本はこうした国から敵視されたくないが、そうならないように、こちらから刺激する必要もない」
 いま、その心配が現実味を帯びつつある。刺激と反発の悪循環は止めなければならない。周辺国の指導者にも日本のリーダーにも、ぜひ考えてもらいたいことである。

 若宮氏が護憲の姿勢をとっている点はよいのですが、その姿勢はいかにも弱々しいものです。文中に、「9条を改めることがすべて危険だなどとは思わない」、「日米同盟は基本」などの言葉が見られることは、現憲法の平和主義の有効性を信じきっていない証拠です。氏のいう「日米同盟」とは日米安全保障条約という名の軍事同盟であり、いまや世界で過去の遺物になりつつある軍事同盟にいつまでもすがりつき、軍事対抗主義を捨てきれない考えは、本質的には氏が批判する安倍首相のものと大差がありません。ここに、現在の日本の大手メディアの悲しむべき限界があります。

多幡記

2013年1月12日土曜日

戦争体験を語る:上・三池尚道さん(その3)
どこから考えても戦争はしてはいけませんな

三池さん

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兄弟5人中2人が戦死

 兄弟5人中4人が兵隊に行きましたが、2人が戦死しました。10歳上の長兄は大阪大学で応用化学と機械の道に優れていたそうですが、卒業と同時に召集されて大尉となり、フィリピンで戦死。26歳でした。

 7歳上の次兄は徴兵検査で合格し、入隊、3カ月後戦死。乗っていた船が南太平洋のニューブリテン島へ向かう途中、魚雷攻撃を受け沈没しました。

 特に長兄は両親自慢の息子であり、両親亡き後は家族の大黒柱でもありました。それだけに戦死を聞いたとき、今後どうしたらいいのだろうと相当悩みました。

 どちらも独身でしたが、両親が亡くなっていたとして遺族年金など補償金は全くなしです。受け取る親が生きていなかったとはいえ、自分は今でも納得できていません。

 いまでは兄弟でただ1人生きている私が2人の位牌を預かり、命日の毎月29日、今でもお坊さんに経を上げてもらい、手を合わせて供養しています。

戦争は絶対にしてはいけない

 戦争だけは絶対にしてはいけませんな。戦争に行っている人は大変だし、おくりだしている家族も大変ですね。

 考えてみれば、私の親もかわいそうなものです。苦労して育て一人前になったと思ったら戦争にとられ、一回も楽な目をしないまま死んでしまったとは。2人とも病死でしたが、もし戦争の時代でなければもっと長く生きられたかもしれないのに。

 子どもにしたって、成人にはなっても親が生きていることは生き甲斐になりますからね。どこから考えても戦争はしてはいけませんな。

(完)

(2013年3月26日、小倉・荒川がインタビュー)

『憲法九条だより』第19号(2013年1月10日)から

2013年1月10日木曜日

「九条の会」メルマガ第156号:緊張感をもって、新年の情勢にたち向かいます


 表記の号が2013年1月10日付けで発行されました。詳細はウェブサイトでご覧になれます。運動に活用しましょう。なお、メルマガ読者登録はこちらでできます。

 以下に、冒頭の二つの重要記事と編集後記を引用して紹介します。

九条の会事務局主催「学習会」を行います


 憲法問題が緊張しています。
 九条の会事務局では、安倍政権が集団的自衛権行使容認の動きをすすめていることにたいして学習会を企画しています。ぜひご予定に入れてください。詳細は追って発表します。
 日時:3月3日(日)開場13:30
 会場:東京しごとセンター講堂(千代田区飯田橋)

ベアテ・シロタ・ゴードンさんが昨年末、亡くなられました。謹んでお悔やみを申し上げます


 事務局に1月1日、在米の日本人のOさんから以下のメールが寄せられました。メルマガ編集部は、日本国憲法の準備期にベアテ・シロタ・ゴードンさんが現憲法の女性の人権、平和などについて果たされた重大な業績に、心から敬意を払い、彼女のご逝去を心から悼みます。

 また、ご逝去に際して、ベアテさんのご遺族が故人をしのぶお花の代わりに九条の会への寄付を呼びかけることを決めてくださったことにはお礼の申し上げようもありません(新年に入り、各地の有志の方々から事務局や呼びかけ人の所に「ベアテさんへの献花に代えて」という主旨で寄付が届いております)。

 折から、日本では安倍内閣が登場し、平和憲法にかつてない危機が訪れようとしています。この歴史の逆流を打ち破り、終生、日本国憲法を愛し、その理念を広めることに力を尽くされたベアテさんのご努力が大きく花開き実を結びよう、私どもは全国の九条の会の皆さんと共に全力を尽くしたいと思います。

 (なお、九条の会の郵便振替口座番号等はメルマガ詳細をご覧下さい。)

 Oさんのメールをご紹介致します(九条の会メルマガ編集部)

 初めてお便りします。憲法草案の書き手の一人であるベアーテシロタゴードンさんのことはご存知だとおもいます。私は長い友人でニューヨーク住まいのOといいます。ベアーテが昨日現地時間12/30夜、亡くなられ長女の方が以下のような通知をだされました。お話ができなくなるまでぎりぎり朝日新聞取材の憲法についてのインタビューに娘さんを通じてこたえていらっしゃいました。家族の死に際してお花の代わりに故人をしのぶ関係に寄付をというのがこちらの心ある方の習慣です。そのために彼女の大きな2つの業績(アメリカでのアジアからの舞台芸術のプロジユースと日本の憲法)それぞれへの寄付を提案するとご家族のかたはきめられました。

 私が日本への寄付先について相談を受け、女性項を書かれたのでそういう団体もさがしましたが、今度の選挙の結果を受けて一番大事で一番あやういのが9条ということになり、また発起人の一人である鶴見俊輔さんなどと共著もあり、9条の会にきめました。どのくらいのお金があつまるかはベアーテの日本のファンにどれくらい彼女の遺志が伝わるかだと思います。

 そちらさまのメールマガジン、ウェブでも広めていただけたら幸いです。ただお金の額より最後まで日本の憲法を世界の叡智とほこられ大事にしていた日本育ちのベアーテさんの気持ちを選挙後の日本国民の方にわかっていただきたいのです。 ベアーテさんのファンの方達はまた気持ちを新たに運動に参加してくれるかもしれません。

 ベアーテさんのことについては 本もでておりますし、Wikipedia でも多くの情報があります。また英語版の Wikipedia は今直したとところですから、ご参照ください。(以上)

 以下、新聞報道の一部を紹介します





編集後記~緊張感をもって、新年の情勢にたち向かいます


 謹んで新年のご挨拶を申し上げます。

 新年にあたって、各地の皆さまからあいついで力強いメッセージが届いております。本号、冒頭にお知らせしたベアテさんのご遺志も私たちを大きく励ましてくれていると思います。

 あらためて、今年は九条の会の真価が問われる年だと思います。メルマガも自らに課せられた役割を果たせますよう、がんばる所存です。どうぞよろしくお願い致します。

 (以上、引用に当たって、表記等を読みやすく変更したところがあります。文責・多幡)

2013年1月6日日曜日

改憲の策動を打ち破り、憲法9条を守り広げる大きな流れを作りましょう


本会事務局長 上田規美子

 12月16日投票の衆議院選挙の結果、自民党が圧勝し、改憲の騎手である安倍晋三氏が首相になりました。共同通信社のアンケート調査では、憲法9条改正賛成の議員は75.6%で改定に必要な3分の2以上の条件を満たしています。また、集団的自衛権の行使について、解釈見直しを、としている議員は81.1%にのぼるという結果です。

 このことから、憲法9条の改正が一気に加速することになります。そしてまずは、憲法96条の、改定に必要な国会発議要件を現行の3分の2以上から2分の1以上に緩和することから始めようとしています。

 私たち「9条の会」は、二度と戦争を起こさないように平和を守り広げていくためにも、憲法9条を要(かなめ)としてその大切さを訴えてきました。平和な世の中を子どもや孫たちに伝えていきたいと願って活動しています。この憲法9条があるからこそ、戦後自衛隊がイラクなど海外に行っても、一人も殺すことなくきているのです。

 いまアジア諸国からも、日本の右傾化について厳しい目が向けられています。もし憲法9条をかえて自衛軍を持つようになれば、外国との平和外交をすすめていくことが困難になることは目に見えています。憲法9条を守り広げていくことが、いまこそ日本の、そして「9条の会」に課せられた大きな課題です。

 今年は、よりいっそう対話を広げ、9条を守る大きな流れを作り出していきましょう。 

『憲法九条だより』第19号(2013年1月10日発行予定)から

2013年1月4日金曜日

これからが正念場:新しい年を迎えて


雨後のブラーの島(水彩画・部分)

本会代表 多幡達夫(文と絵)

 2013年は巳年、すなわちヘビの年です。かつて朝日新聞に連載されていた大岡信氏の「折々のうた」に、ヘビを読み込んだ次の短歌が紹介されていました。
 ばんざいの姿で蛇に銜(くわ)えられ春らんまんの蛙いっぴき
——鳥海昭子『花いちもんめ』

 大岡氏の解説には、まず、この歌の意味だけを見れば「動物世界の残酷物語ということになろう」とあります。続いて、歌を読み下すときの印象は別で、明るさがあることを指摘し、それは「春らんまんの」という「思いきった形容の効果」だと述べています。

 明るい印象があれば、一見残酷な歌でも年賀状に使ってもよかろうと、私は思いました。しかし、衆院選の結果を見て、次のような、残酷さにかかわる連想を、この歌を引用したあとに書き加えざるを得ませんでした。

 「前途ある多くの若者が、ばんざいを唱えながら散って行った時代へ歴史を逆戻りさせてはならないと、切に思うこの頃です。」

 衆院選で多数を取った自民党が準備している改憲草案は、大勢の若者たちが強制的に軍隊に入れられ、このように無駄に命を落とした時代を再現するものです。しかし、自民党の「圧勝」は、多党乱立、低投票率、小選挙区制の弊害などによる見かけ上の現象で、民意は決して、こうした恐ろしい「改憲」や、危険な「原発再稼働」を認めて、「憲法9条護持」や「原発ゼロ」に背を向けたのではありません。

 9条を守り活かし、また原発ゼロを早期に実現するための闘いは、これからが正念場と思って、私たちは、いま気持ちを引きしめなければなりません。

 上の水彩画(部分)は、私がイタリア旅行で訪れたブラーノ島の街の、雨後の風景を描いたものです。その旅行をしたのは、2003年、イラク戦争が始まって間もなくで、イタリアのどこの街でも、PACE(パーチェ、「平和」のイタリア語)の文字の入った七色横縞の旗が家々に掲げられ、イラク戦争反対を表明しているのを見て感心しました。絵の左端の商店の二階の壁にもその旗が見られます(左上隅)。私たちも、「9条を守り活かそう」の意思表示をしっかりと示して行きましょう。

本会の『憲法九条だより』第19号(近日発行予定)から

2013年1月1日火曜日

「日本国憲法起草のベアテ・シロタ・ゴードンさん死去」毎日新聞など


 毎日新聞は1月1日付けで、第2次世界大戦後、GHQ(連合国軍総司令部)民政局員として日本国憲法の男女平等などの条項を起草した米国人女性、ベアテ・シロタ・ゴードンさんが昨年12月30日、膵臓がんのため、ニューヨーク市内の自宅で死亡したことを報じました(記事はこちら)。

 その記事は、ゴードンさんが生前、「日本の憲法は米国の憲法より素晴らしい。決して『押しつけ』ではない」と主張し、9条(戦争放棄)を含む改憲の動きに反対していたことや、親族が故人への供花をする代わりに作家の大江健三郎さんらが設立した「9条の会」への寄付などを呼びかけていることを報じています。

 また、同日の朝日新聞デジタルは、同じくゴードンさんの訃報(こちら)を掲載し、その中で、長女のニコルさんによると、最期の言葉は日本国憲法に盛り込まれた平和条項と、女性の権利を守ってほしい、という趣旨だったことを伝えています。

 私たちはぜひとも、ゴードンさんの生前の主張を活かし、最期の言葉を果たすように努めなければなりません。

多幡記