『図書』誌2013年8月号 p. 48〜50 の「人生の誤植」と題するエッセイで、赤川次郎さんは、若い頃に校正の仕事をしていたため、誤植を見つけるのが得意だという話から書き始めています。その中で注目すべきは、「本の誤植は訂正すれば済むが、『国家の誤植』は一旦誤れば莫大な犠牲を払わない限り訂正することはできない」とまとめている本論の部分です。
その本論は、まず、「公の場での責任ある立場の人間の発言は、訂正して済むものではない」として、国連の拷問禁止委員会の席で上田大使が行なった非礼な「シャラップ!」発言、自民党の高市早苗議員の「原発事故で死者は出ていない」発言などを取り上げています。そして、「驚くのは、そのいずれも『反省』したり『撤回』したりすれば『なかったことになる』という日本でしか通用しない『常識』が、ジャーナリズムにまかり通っていることである」と指摘しています。
このエッセイが書かれたあとで出現した、麻生太郎副総理の「ナチスの手口に学べ」発言も、いま、その非常識な「常識」によって、なかったことにされようとしています。
赤川さんは、さらに、次のように述べています。
国連は日本に冤罪の温床となる代用監獄の廃止などを何度も勧告して来た。死刑廃止に向けた取り組みも同様だが、日本はそのすべてを無視して来た。さらに国連は橋下市長の[慰安婦問題への]発言に対し、日本政府が反論することも求めたが、それにも「法的拘束力はない」から「従う義務はない」と決定した。[…]世界がどう言おうが、日本は日本のやり方を押し通すのだ、という姿勢は、戦前の国際連盟を一人脱退して戦争への道をひた走った軍国日本の姿そのままである。これは、決して誇張でも、やぶにらみの意見でもなく、全くその通りの、危険な状況を直視した言葉だと思います。ここに述べられている日本の姿勢は、先に紹介した米映画監督、オリバー・ストーン氏の「日本は[…]道徳的な大国になっていない」という言葉を裏書きする事実の一端でもあります。
多幡記
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