2013年4月18日木曜日

戦争体験を語る:泉谷ミサノさん(1)

「死ぬんだったら家族と一緒に…」


泉谷ミサノさん(鳳東町)

女子はぺんぺん草

 私は大正14年9月20日、大阪市浪速区で4人姉妹の長女として生まれました。父は能登半島の輪島と穴水の中間あたりの片田舎、「与呂見」村の農家に生まれました。農家の女の子は「ぺんぺん草」という屋根に生える草にたとえられ嫁に行かなくてももどってきても養ってやるが、長男以外の男兄弟は「木っ葉」といって何一つ与えずに追い出される風習がありました。それで次男坊の父は大阪に出てきて運送業をしていました。といっても車ではなく馬車でやっていました。

 母は奈良県大和の田舎、柳生出身でした。両親とも穏やかでどこから見ても普通の家庭で、私は気ままにのびのびと育てられていました。近所には子どもが多く8人兄弟もめずらしくありませんでした。だから遊ぶ相手には事欠かず、お稲荷さんに行ってかくれんぼをしたり、ドッジボールをしたり、ハイキングに行ったり、よく遊びました。あの時代不良などする人はいませんでした。

勤労奉仕

 大阪市立立葉高等女学校に入学してからは、神武天皇から始まる天皇の名前を暗唱させられたり、薙刀(なぎなた)の練習をしたり、勤労奉仕として出征兵士の家に稲刈りの手伝いに行ったり、学校で兵隊さんの服などミシンかけをやったり、森ノ宮の砲兵工廠で軍刀や短刀を入れる革サック磨きは一日中外に出られず疲れたけど、ずっとでもなく苦しい辛いと思ったことはありませんでした。

栄養失調

 私はそろばんが得意で仕事ではずいぶんと得をしました。今でも買物をするときは暗算をしており、頭の老化防止にもいいようです。当時の給料は月30円弱、ボーナスは100円で結構よかったと思います。それで心斎橋をぶらついたり、買い物をしたり、宝塚やOSKを見に行ったり、気楽に遊んでいました。

 やがて戦況が厳しくなってきて、繊維業界は平和産業といわれ肩身が狭くなり、勤め先は店を閉めてしまいました。やむなく今度は日本通運に就職しました。その頃ものは不足しており、食べ物も配給制度になっていました。それでただでも食料が少ないうえに、私は好き嫌いをしていたことがたたって、事務所で倒れてしまいました。栄養失調と診断されました。それで日本通運も辞めてしまいました。療養を兼ねて一人で大和の柳生に疎開しました。大きな広い家には祖母が一人で暮らしており喜んでくれました。

空襲で丸焼け

 私が大和にいた昭和20年3月、大阪空襲で難波あたりがやられたとき、私の家も丸焼けになりました。両親と妹3人は奇跡的に無事でしたが、何もかも焼けてしまいました。私が大和に持って行ってた少しの写真以外はすべて焼かれ残っていません。小学校の同級生も多く犠牲になりました。生きていても名簿も焼けて連絡も取れなくなりました。だから同窓会はずっとありませんでした。その後何とか連絡がつき初めてやったのが60歳の時で、集まったのも10人だけでした。その中で今も生きているのは私と、小浜と福島にいる2人だけです。

能登の寺へ疎開

 空襲で焼け出された家族5人は住む家も無くなり、疎開をすることになりました。あてもなく父の故郷に向かい、石川県穴水と輪島の中間あたりの能登三井駅(2001年に廃線となり今はない)駅前の寺(記憶では徳成寺と思う)の本堂の片隅に布団をひき寝させてもらいました。お寺さんにとっては迷惑なことは分かっていましたが、行くところもなく仕方なく暮らしていました。

 その頃大和にいた私は激しさを増してくる空襲の話をあちらこちらで耳にしていたので、死ぬんだったら家族と一緒に死にたいと考え、祖母に引き止められたけど、家族のいるその寺へ行き、一緒に生活を始めました。この寺で終戦をむかえましたが、家族のくらしは更にたいへんになりました。(次号に続く)

(インタビュー、小倉・荒川、2012年5月22日)

『憲法九条だより』第20号(2013年4月1日)から

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