2012年12月11日火曜日

私の戦時体験:戦中戦後を思い出すままに

多幡貞子(上在住)

 自宅から徒歩で十分ほどの豊中市立克明小学校(当時の明徳国民学校)に私は通学していましたが、校庭の西北隅にあった奉安殿の壁が、やけに白かった覚えがあります。登下校のとき、「御真影」と教育勅語を納めたこの奉安殿に向って、ていねいに一礼することを厳しく申し渡されていました。四年生のときの担任の女教師は、いつも竹の棒を振りまわし、ヒステリックに児童の机を叩きまわっていました。先生のいわれるまま、「何で?」と聞き返すこともできなくて、おびえ、小さくなっていました。

 大阪工業試験所で合成ゴムの研究に従事していた父は、職場では軍から研究成果を急がされ徹夜の実験をして、家庭ではいつも不機嫌でした。大人は皆、子どもにやさしく接するような時代ではありませんでした。子どもは、目上の人への口答えはご法度で、絶対服従させられていました。

 戦局が不利になると、警戒警報のサイレンがたびたび鳴り響くようになり、学校から一目散に駈け戻り、地下防空壕に飛び込む日が多くなりました。夜もモンペ姿のまま眠り、警報と同時に枕元の防空頭巾をかぶり、ねぼけまなこで、親に叱られながら、暗くて湿っぽい土の匂いのしている壕に避難するのです。やがて、空襲警報の出る前に、B29 が編隊を組んでやってくる爆音がするようになり、爆弾投下の音がし始めると、もう生きた心地はしません。B29 が早く飛び去ることを祈るばかりの恐ろしい日々が続きます。

 私たちの小学校では、集団疎開はありませんでしたが、個人的に親類を頼って疎開する子どもはいました。同じクラスの一人の男子が奈良に疎開し、暑い日に窓際にいたところを、突然低空飛行して来た敵機に狙撃されて即死しました。終戦まであと数日のことでした。私の父は、戦時研究員ということで、出征をまぬがれたし、伯父たちも皆、復員してきたので、身近に「死」の体験がありませんでした。したがって、この同級生の死は、私にとって大きなショックで、F 君という名前をいまも忘れることができません。疎開しなければ、彼はいまも元気だったかもしれません。

 私の家から数十メートルと離れない塚にも、一トン爆弾が落ちてきましたが、周辺の人家に大きな被害がなかったのは幸いでした。終戦までの二ヵ月間に、豊中全体に六回の空襲があり、約千五百人の死者・行方不明者が出たと聞きました。いつのときにも、運・不運というのがあるのでしょう。

 終戦の日、学校へ行ってみると、あの厳しい女教師が職員室で泣いていたので、たいへん驚きました。ともかく、警報にびくびくしなくてもよくなり、また、夜は明るい電灯のもとで過ごせることを本当に嬉しいと思いました。食生活は相変わらず貧しいものでしたが、先生と学童、大人と子どもの間に自由な話し合いや笑いが生まれました。学校は活気と明るさに満ち、戦争のない生活とは、こんなに楽しい、すばらしいものかと感動したのでした。

 [大学の出身学科同期生有志による文集『戦時下の少女たち』(1998年)から]