2012年10月7日日曜日

戦争体験を語る:上・三池尚道さん(その2)


三池さん(初回の記事はここをクリック

戸田基地

 「丸大」とは海軍独特の名前で、いわゆる敵船に魚雷を抱いて体当たりする一人乗りの人間魚雷艇のことでした。空の特攻隊に対して海の特攻隊です。もはや飛行機がないために考えられたことだったと思いました。三十から四十機あったと思います。

丸大:体当たり自爆用なので、帰還するための脚や車輪など降着装置はない。部署によっては桜花と呼ばれていた。(東海大学・鳥飼行博研究室ウェブページから)

 基地は早稲田大学水路部所有の学校のような建物を借りており、ハンモックで寝ました。ビンタやバッタは土浦や岡崎ほどではなかったが、相変わらずここでもやられていました。

 同じ部隊に、赤紙で召集された私たちの親みたいな年寄りの初年兵がいました。私たちは当時伍長で、階級は上でしたから、出会うと敬礼してくれましたが、「そんなんせんでかまへんかまへん」と言ってやりました。申し合わせたことはなかったけど、同期の誰もが叩いたりは絶対にせず、やさしく接していました。年寄りの初年兵も叩かれることを覚悟して来ていたようで、喜んでいました。

 辺ぴな漁師町の戸田に来てからは都市のようなB29による空襲はなかったが、グラマン戦闘機の機銃掃射は一層激しくなりました。ある日かつお船を狙って急降下爆撃し次つぎと船を沈めたとき、漁師さんを助けに向かったこともありました。

 また同期生が外で作業をしているとき、三人撃たれて死にました。一人は弾は首の後ろからお尻まで縦貫し即死でした。弾が出たお尻には大きな穴が開いているのを近くで見てしまいました。終戦がもう半年か一年遅かったら、私も命は無かったと思います。訓練は毎日でしたが、結局終戦まで戸田基地から丸大に乗船して敵船に突撃したこと一回もありませんでした。

敗戦

 八月十五日は、普段と同じように訓練をしていました。玉音放送(天皇肉声の放送)があることも知らされていませんでした。

 この日、将校十三人全員が突如いなくなりました。翌日になっても姿が見えません。「おかしいな?」と話し合ってたのだが実は、敗戦を知り、部下から逃げるようにこっそり姿を消したのです。何とも卑怯で抜け目ないですね。まじめに一生懸命やってる兵隊はかわいそうなもんですね。寒い冬でも将校達は命令して見ているだけで、部下にはふんどし一丁で海に入らせたり上がらせたり、また入らせたり上がらせたり…。「いままでさんざん痛めつけておいて、見つけたら叩き殺してやる!」と怒っている人もいました。

 私たちが知ったのは、二日後の十七日です。漁師の奥さんがサクランボをとりに基地の中に入ってきて話したとき、「あんたら知らんのかいな! 日本は戦争に負けたよ!」と聞きました。その時はなぜか「よかった」とか「助かった」というような気持ちは湧かず、「しゃーないな。荷物はあるしどうして大阪の家に帰ろうか…」と、そのことばかり考えていたように思います。

 他の若い者も同じようでしたが、年寄りの兵隊だけは喜んでいましたね。待っている家族のことなどがあったんでしょうかね。

家族のもとへ

数日後土地の人からリヤカーをもらって荷物を積み、四人で沼津駅まで二十キロほどを歩きました。終戦の混乱で汽車は切符も買わずに乗れました。有蓋貨車に乗り込み大阪に向かいましたが、将校連中がたくさん乗っていました。

 当時家族の住んでいた岸和田に帰って数カ月してから、やっと「戦争がおわってよかった!」と、じわっとうれしく感じるようになりました。戦争嫌いだったのになぜなんでしょうかね? 自分でもよくわかりません…。

戦争責任

 戦後になって天皇が戦争責任はなかったと聞き、「これは世の中おかしいと違うか!」と、天皇の命令に従って戦争してきた者として理屈でなく純粋にそう考えるようになりました。

 いっしょに働いていた労働組合の人が「天皇が戦争責任がないなんて、そんなバカなことがあるかい!」と怒っているのを聞き、「ぼくと同じことを考えているんだ」と、うれしく感じたことも覚えています。

 「天皇陛下万歳と言って死ね」という教育ばかりを受け、「米英両国と戦争状態に入れり」と言ったのも天皇だし、「どんな辛抱してでも頑張らないといけない」と言ったのも天皇だし、戦死した二人の兄に赤紙をよこしたのも天皇だし、ビンタやバッタがやられたのも天皇の名のもとであり、それなのに何で責任がないのか腹が立って仕方がなかったです。

 この話は子にも孫にも何度となく話しており、よく分かってくれています。(次号に続く)

『憲法九条だより』第18号(2012年9月30日)から