私は少年兵として戦地に行きましたが、怖い・苦しい体験話はありません。敵の飛行機も船も兵隊も見たことはありません。食べ物も着るものも不自由したことはありません。そんなんでお役にたてるかどうか不安ですが、[体験を聞かせて欲しいとの]お話をもらってから思い出してはメモをしてきました。
私は大正15年4月3日、桜島のふもと、鹿児島県垂水市8人兄弟の5番目で生まれました。経済的に恵まれ、何の苦労もなくのびのびと育ちました。特に楽しみなのが家で飼っていた牛や馬や豚や鶏を世話することでした。裸馬に乗って駆け回ることも大好きでした。時々さっそうと馬に乗ってやってくる獣医さんに憧れていました。
尋常高等小学校を卒業し、親や先生の勧めで技術院養成所に入りましたが、獣医になる夢が捨てきれず、そこをやめて単身で支那へ渡り、南京ちかくの鎮江にある陸軍獣医務下士官候補者隊に入隊しました。看護婦のような手伝い仕事で、ここにいても獣医にはなれないと分かり、1年程してから少年兵として志願しました。
このころは戦況も悪く、出征を送り出すばかりの自分が恥ずかしい気持ちになっていたことがありました。志願して出征することは死を覚悟することでした。親に相談すると「好きにせい」と、反対はありませんでした。
昭和20年2月に入隊し、北朝鮮、会寧にある陸軍14飛行教育隊に配属されました。近くを豆満江が流れており、そこでやらされたことは、毎日のようにツルハシとスコップで壕掘りするばかりでした。飛行場はありましたが、飛行機はなく、通信・整備の勉強を雨の日には若干しました。飛行機に触れたのは2~3回だけでした。
ここの中隊長はお寺の坊さんと聞きましたが、とってもよい人でした。隊内でビンタとかいじめもありませんでした。ただ、戦陣訓の暗唱が命じられていて、覚えていない人は叩かれているところを見かけました。帰ってから他の人に聞いて分かったのですが、私の軍隊生活は本当に恵まれていたと思います。
教育が終わり、それぞれ各地に配属され、私は隣にあった飛行隊になりました。ここも飛行機はありませんでした。飛行場にムシロを飛行機の形におき、上からペンキを塗り日の丸を描き、飛行機があるかのように偽装し、近くにタコツボを掘って機関銃を据え「敵が来たら反撃するように!」言われましたが、敵が来たことはありませんでした。こんな子どもじみたことをしているようでは、この戦争を勝てるとは思えませんでした。
8月9日、ソ連が参戦し、清津では艦砲射撃がはじまったと聞き、部隊ごと逃げることがうわさされ始めました。8月13日、会寧駅から食料など何でも積んで、70~80人の部隊ごと貨車で移動を始めました。日本が負けることを予想しての行動だと思いました。汽車はソ連の飛行機に見つからないようにと、夜間だけ走りました。敗戦前日の8月14日夜、同乗していた報道関係の人から、「日本は負けた」と聞きました。部隊長は「でたらめだ!」と怒っていました。
8月15日朝、朝鮮人がわれわれの貨車に向かって「朝鮮独立万歳、独立万歳!」と叫びながら、貨車にぶら下がったり、石を投げたりしてきました。汽車は引き込み線で平城飛行場の兵舎に入りました。飛行機で逃げる話もありましたが、ソ連が南下しており、上空にはソ連機が飛んでいる連絡があり、少しでも日本に近い方へ逃げようと、朝鮮人の運転手と交渉し同じ貨車で南下しました。
8月16日朝早くに大田駅まで逃げてきました。ここで銃や武器を返納させられましたが、特に危険を感じることはありませんでした。駅近くの女学校に入り教室に宿泊し、10月まで1ヵ月半滞在しました。ここでの生活は、日本でご苦労されていた人たちには申し訳ないような、贅沢に過ごした期間でした。貨車に積み込んできた物資で、さんざん食べ放題、飲み放題、演芸会や運動会や相撲大会などもあり、楽しくブラブラしていました。町へ出かけるのも許可されていました。どうしてこんなにさせてくれたのか、今考えても不思議です。
10月12日に女学校を出て、一般の汽車で釜山に向かいました。そのとき布団袋を半分に切り、糸と針を使ってリュックを作り、毛布や毛糸の肌着やお米、砂糖は枕カバーに詰め込んで、持てるだけもって汽車に乗りました。こんなことができたのは私たちの部隊くらいだと思います。
先の戦争は間違っていたと思います。私が考えても勝てないことは分かったのに、戦争を始めて多くの国民が犠牲になりました。戦後、梅田の地下に靴磨きの浮浪児がたくさんいました。国が始めた戦争の犠牲となったこの少年たちを、なぜ国は面倒見てやらんのだろうと、怒りのようなものを感じたことがありました。
昭和18年と19年に長兄と次兄が戦死しました。長兄が招集されたのは35歳で、結婚して子供も2人いました。農業指導員で、ミカン農家に大変信頼され、社会的にも期待されていました。父親もこの時だけは涙を流して悲しみ、見ていて辛いほどでした。
戦争は絶対にしてはいかんです。犠牲になるのは弱い国民です。しかし、他の国に侵略されたくないから軍備は国を守るために必要だと思います。戦争させないためにも必要だと思っています。
(インタビュー2011年12月8日、小倉・荒川)
(『憲法九条だより』16号、2012年1月1日から)
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