2013年12月15日日曜日

戦争体験を語る:佐藤鹿津さん(1)

「15歳で一人っきりに」


佐藤鹿津さん(鳳南町)

一、母の苦労

 私は昭和4年1月、高知県で4人の子どもの末っ子として生まれました。2人の兄と1人の姉がいました。父は代書の仕事をしていたようですが、私が10歳の時に脳溢血で急死し、記憶にはほとんどありません。父の死後は母が縫物などいろんな仕事をして、苦労をして育ててくれたようです。食べ物には不自由することはありませんでしたが、着るものでは、いい服作ってくれないし、貧乏になったのかなと感じた記憶があります。

 子どもだったので当時のことはよく分かりませんが、父は土地を持っていたようで、小作料でしょうか、お米だけは近所の人がよく持ってきてくれてました。この土地が兄や私たちの学費や生活費になっていたのかもしれませんが、そこはよく分かりません。野菜や魚などはあまり食卓に並ばなかったように思いますが、そんなことは今考えてのことで、当時は気づいてもいませんでした。

 お陰で悩んだり苦しんだりすることもなく、女の子らしくゆったりと育ててもらいました。私は幼いころから肉や魚が嫌いで、今でも食べませんが、6年生のある日「肉が食べたい!」といったら、母が喜んでくれて、手に入りにくい時代なのに遠くの町まで買いに行ってくれた記憶があります。わがままな私なのに、大切にしてくれていたんだなと思います。

二、戦争一色、勉強もできない

 女学校へ入学した年に太平洋戦争がはじまりました。戦争一色になって、英語はアカン、あれはイカンで、ほとんど勉強もできず、勉強してても百姓の家から「手伝いがほしい!」と言われたら、勤労奉仕ということで、勉強をほっといて、稲刈り麦刈りなど手伝いに行ったりして、ほとんど授業はなかったです。親が苦労して月謝払っているのに、これでいいのかなと疑問に思っていました。また、出征兵士の見送りや英霊のお迎えには、日の丸の小旗をもっていきました。まだ子供でしたからその意味も感じてはいませんでした。

三、兄が軍隊へ、母は亡くなり…

 兄の話ですが、どうしても早稲田大学にいきたいといって、父親に談判して了解をとり、入学しましたが、途中、父の突然死があり、詳しくは知りませんが、その後は母の手一つで、兄も母も相当苦労したと思います。戦争をしている時代だったからでしょうか、繰り上げ卒業をして会社で働いていたようです。昭和18 (1943) 年の夏、高知の家に帰って、しばらくして軍隊に入りました。朝倉の連隊へ母と面会に行ったとき、当番の兵隊さんが「一重の軍服を着ているから、行くのは南方ですよ」と教えてくれました。

 母は心配しましてね、過労もあったと思いますが、体をこわし病気になり、その年の暮れに亡くなりました。もう一人の兄と姉も結核などの病気で、すでに亡くなっており、私は15歳で一人っきりになってしまいました。母の亡くなった日に、兄から「南方にいる」という手紙が届いたんです。近所の人たちのお世話で母の葬儀をすませ、一人の生活となりました。いとこが時々様子を見にきて「よう生きてる、よう生きてる」と心配してくれていましたが、淋しいとか怖いとかは考えませんでした、生きていくにはそうせざるを得ませんでしたから。必死だったんだと思います。

(つづく)

(インタビュー・2013年2月10日、小倉・荒川)
『憲法九条だより』第22号(2013年12月10日)から

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