先に池澤夏樹さんの朝日紙夕刊のエッセイ2月分「沖縄、根拠なき負担」を紹介しました(紹介記事はこちら)。3月、4月分のエッセイも、本会の関心事にふれています。今回は、遅くなりましたが、3月分のエッセイ「気分はもう戦争?—努力なくして平和なし—」を、私たちが読むときに留意しなければならない点を中心に紹介したいと思います(副題「努力なくして…」は、印刷版にあったもので、ディジタル版にはありません)。
「気がついたら、戦争というものがずいぶん近くにぬっと立っていた」という文で始まるこのエッセイは、尖閣諸島の問題を取り上げていて、三つの章に別れています。最初の章では、国家は結束を強めるためにナショナリズムを生産し、異論を封じ、すべてを外的との闘いに投入するというふうに、日米戦争においての日本の開戦から敗戦までを描いています。
これを受けて、次の章は、「尖閣はそんなことにはならないだろう。なんと言っても小さな無人島を巡る『局地限定戦争』のはずだから」と始まります。ここで私たちは、これが池澤さんの推定だと思って安心してしまってはいけません。池澤さんは似たような例として、1982年にアルゼンチンとイギリスの間で起こったフォークランド紛争について述べています。そして、「フォークランドと違って尖閣はそれぞれの本土にとても近い。偶然から戦線が拡大する危険は少なくない」と警告しているのです。
最後の章は、「平和というのはただのんびりした状態ではなく、戦争の原因を排除しつづけて得られる微妙な安定である」という主張や、「中国は本当に覇権国家を目指しているのだろうか?」という分析が述べられていて、やや複雑です。しかし、末尾近くに「[日本と中国の]どちらの国でも普通の人々は誰が戦争で利するのか考えた方がいい」という言葉があり、これはとても重要だと思います。
この言葉に続いて、「というぼくの声が中国の普通の人たちに届くとは思えないが」とありますので、私はここを読んだとき、平和の責任を中国側にのみ期待しているようで、いささか変だと思いました。しかし、最後に「同じように考える人があちらにもたくさんいることをぼくは信じている」とあります。これを詳しく言い換えれば、池澤さんは次のように考えているのです。「日本ではこのエッセイによって同じように考える人が多少なりとも増えるだろうが、あちら中国には、このエッセイが届かなくても、同じように考える人がたくさんいると信じて、双方のそういう人たちによって平和が保たれることを期待したい。」
ところで、池澤さんの問い「誰が戦争で利するのか」に対する答を、皆さんはどう思われますか。戦争の準備段階や初期段階では、一時的に兵器を作る大企業やそこから献金を貰う政治家たちが利するということがあっても、「普通の人々」は何も利することがないどころか、経済的な苦しみを求められ、また、精神的な不安をあおられることになるでしょう。また、最終的には人命・建造物・環境などなどの、破壊による大きな損失があるばかりで、誰も利することにはならないと、私は思います。戦争では何も解決出来ません。憲法9条を守り活かすことこそが、本当の防衛力になるのです。
多幡記
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