多幡達夫
私自身のささやかな戦時体験について、何回かにわたって述べたいと思います。私が生まれたのは1935(昭和10)年4月です。日本の歴史をひもといてみますと、この年には「天皇機関説事件」がありました。「天皇機関説」とは、自由主義的な憲法学者・美濃部達吉の学説で、「統治権は国家に属し、天皇は国家統治の主体ではなく、国の最高機関として統治権を行使するもの」として、天皇に絶対的な権限を与えることを否定したものです。
これは公認の憲法論として、政府要人にも支持されていたのですが、軍部・右翼が機関説撲滅同盟を作って、政友会という政党も巻き込み、政府に天皇機関説否定を迫りました。その結果、政府は二回にわたって「国体明徴の声明」を出し、美濃部は公職から追われることになりました。そして、日本の思想・教育界は教育勅語と「天壌無窮*」の神話に基づく国体観を基準とする超国家主義に支配されて行くのです**。
* 「天壌無窮」とは、天地とともにきわまりなく、永遠に続くという意味で、天皇の神格化に使われた言葉です。
** 以上の歴史は加藤文三・他『日本歴史 下』改訂版(新日本新書, 1978)を参考にしました。
私が生まれたのは石川県の金沢市でした。父は旧制中学校の教員でしたが、私が四、五歳の頃、病気がちになり、通勤その他において勤務の比較的楽な、同じ県内の七尾市にあった中学校へ転勤させて貰いました。したがって、私は1942年に七尾市で小学校に入学しました。それは、太平洋戦争開始の翌年です。前年に発布・施行された「国民学校令」に基づいて、小学校でなく、国民学校と呼ばれるようになっていました。
校門を入ると、天皇と皇后の写真(御真影)と教育勅語を納めた奉安殿という建物があり、まず、その前で最敬礼をしてから校舎に入らなければなりませんでした。祝祭日に学校で行われる儀式では、校長が教育勅語を「奉読」(朗読)することが小学校令で決められたいました。そこで、私たちは祝祭日のたびに、講堂に整列して、「直立不動の姿勢」で教育勅語に聞き入りました。
体育の時間だけでなく、講堂に集まるときでも、児童は軍隊式の号令のもとに、整然と行動しなければなりませんでした。講堂での儀式や朝礼の際に、児童は学級ごとに男女各々が縦一列になって並びます。男子の列の先頭には級長が、女子の列の前には女子の副級長が立って、まず後ろを向き(このときにも軍隊式の「回れ右」の方式で向きを変えなければなりません)、それぞれの列の児童の間隔、列の真っすぐさを、「気をつけ!」「前へならえ!」などの号令で正します。級長や副級長は、途中の誰かのところで列が歪んでいるのを見つけると、その児童の名を呼んで注意します。
1年生の1学期には、級長、副級長がまだ決まっていませんでしたから、学級担任がその役をしていたと思います。私は1年の2学期に早速担任から級長に任命され、講堂でそうした号令を掛けなければなりませんでしたが、それはやや苦手でした。その頃から私は近視になりかけていたので、列の歪みが後ろの方で起こっているのを見ても、注意すべき児童が誰か分かり難かったというのが原因だったと思います。
運動会(いまの体育祭のこと)のときにも、軍隊式の行進をしました。運動場の正面中央の指揮台の上には校長が立っていたのでしょうか。その前を通るときに、級長は「頭(かしら)右!」の号令をかけて、後続の同級児童全員の頭を指揮台の方に向かせ、壇上に敬意を表させました。
(つづく)
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