2011年5月24日火曜日

戦争体験を語る:「地獄の時代でした」

鳳東町・佐竹文雄さん


 この年まで生きてきて、いま幸せです。家内と二人で毎日を感謝しながら、先祖供養もしっかりやりながら、喜んで過ごさせてもらっています。それにくらべ、戦争中は地獄の時代でした。エーこともない、楽しいこともない、悪いことばっかりで思い出しとうない。以前から戦争体験談を頼まれていましたが、断り続けていました。家内や子どもたちにも話したことはない。戦争時代の写真などもいつ頃だったか全部捨てました。わが家には結婚式以後の写真しかありません。

 わたしは大正11年6月10日、香川県多肥村(現在の高松市多肥)の農家に生まれました。昭和12年、尋常高等小学校(今の中学校)を卒業して、大阪船場の綿布問屋の住み込み丁稚奉公に出ました。3年後の18歳の夏、馬場町の砲兵工廠に徴用され山砲の薬きょう作りをさせられました。20歳の夏、本籍地の多肥村で徴兵検査を受け、甲種合格となり、翌3月1日、福山の陸軍41連隊に入隊し、きびしい訓練がはじまりました。毎日毎日銃をかついで歩いたり走ったりの行進や、ほふく前進、山に入って敵味方に分かれて競争したり、そして、何かあるごとに容赦のないビンタの嵐。

 半年ほどして朝鮮の平壌へ配属となり、南方戦線帰りの部隊と合流しました。まず歩哨をやらされ、マイナス20度にもなる平壌の冬は、外套2枚着ていても冷えて、ジッとしておれない程でした。そのあと、酒タバコなど売る業者を束ねる酒保勤務のとき、腸チフスにかかりました。当時ほとんどの人が死ぬ病気で、自分も覚悟をしていました。痩せて痩せて骨と皮状態になったが、3カ月ほどして幸運にも治りました。元の中隊にもどってしばらくして、軍医から「1回死んだんだからここに行きなさい」と、宮崎県川南町にある陸軍118部隊に配属されました。22歳の春でした。平壌から船で博多へ。日本の匂いがして嬉しいことでした。

 宮崎駅には朝着きました。天気がよくて、飛行機からキラキラした美しいものが降りてくるのを目にしました。落下傘部隊の訓練でした。希望を聞かれたとき、このときの印象で、ばかなもので「熱望する」と書いてしまいました。落下傘部隊は敵のど真ん中に降りて戦うだけに、ほとんど死ぬと言われていたのに、自分は怖いとは思いませんでした。入隊したときから、生きて帰ることは頭になかったからだと思います。そこまで思い込まされていたことは、いま考えると恐ろしく思います。

 配属が決まってからはエライ目に遭いました。演習といってもほとんど走るばっかり。他には、障害物に素早くかくれる、身体にロープを結び、高い松の木に滑車で引き上げられ、放して落とされる、2階の窓から下に敷いてある2枚のマットめがけ両手両足をバンザイの形にピンと伸ばして飛び降りる、などやらされ、中には手足の骨どころか首の骨を折った人もいました。自分は2階からの飛び降りが「見本や!」と、上官に何度も褒めてもらいました。

 そのうちに飛行機に乗せられ、実際に上空から飛び降りる演習をやりました。はじめて飛び降りるときの恐ろしさは、何というか言いようのないものでした。1・2・3で一人、1・2・3でまた一人と、切れ目のない掛け声とともに、上官にケツ叩かれ飛行機から飛び出します。ためらって少しでも遅れると、ケリ落とされた人もいました。数秒後、落下傘が開き、大きな衝撃がくるとホットします。上を見上げるとニコッとしている後続者の顔が見えました。ただ降りるだけでなく、実戦さながら弾薬を腹に巻き、銃を入れた袋を脚に括りつけ、両手で落下傘を操作します。5回この降下演習をしましたが、落下傘が開かず死亡した人も一人いました。

 この陸軍落下傘部隊は優秀な部隊で、有名なパレンバンの戦いに参加した兵隊もいました。この部隊は5月末に出動したのが最後でした。飛行機がなくなったと聞きました。朝動員が来て編成され、昼には出発しました。どこに向かったのか、一切発表はありませんでした。硫黄島全滅の後であり、沖縄らしいとの噂はありました。新聞にも「日向部隊(落下傘部隊のこと)出撃」の記事が最後で、以後のことは一切載りませんでした。飛行機のないわが落下傘部隊は、山砲の班に編成され、馬の代わりに山砲車を曳く演習をしたり、次は家を壊して半地下の大きな壕を掘ったり。この頃になると、大本営発表もウソついてるし、空襲されても反撃に飛び立つ飛行機もないし、この戦争は負けると感じていました。

 8月15日、練兵場で軍装し整列してラジオを聞きました。雑音で何を言ってるのか分からず、連隊長は「しっかりやれと言ってるぞ」と説明していました。友達が「日本は負けたぞ!」と教えてくれました。このとき「助かった。これで帰れる、嬉しいな!」ばかりで、負けて悔しい気持ちはなかったと思います。部隊の中には腹を切るとか山にこもって最後まで戦うと言ってた人もいましたが、実際にはそうした人は一人もいなかったと聞きました。

 いまでも世界中で争いや戦争は絶えません。戦争とはどんな理屈をつけようと殺し合いには違いない。絶対にいかんことだと思います。

(聞き手と写真・小倉)

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