2011年9月19日月曜日

戦争体験を語る:鳳中町 岡島傳兵衛さん



「忘れよう忘れようと生きてきました」

 私は明治44(1911)年10月、大阪なんば千日前に生まれました。近くには洋館になる前の精華小学校や幼稚園、当時評判の「洋食の自由軒」もありました。通称鴈治郎横丁を出た通りの向かいの路地にわが家はありました。

 学校を卒業し、当時演劇の興行をやっていた宗右衛門町の松竹株式会社に入社しました。やがて戦争が激しくなり演劇どころではない時代になりました。空襲や機銃掃射にも何度もあいました。将来のことを考えた末、そこを辞めて、友達の紹介で高田アルミ(後の昭和アルミ)に就職しました。終戦後も働き、定年まで勤めることができました。

 結婚をして30歳を過ぎた頃、赤紙が来ました。20歳の時、徴兵検査を受けていましたが、兵隊には行っていませんでした。なのに赤紙1枚で兵隊です。所属は呉海軍の水兵ですが、行き先は「大阪退避」として、大阪市杉本町の大阪市立大学にある兵舎でした。入隊式もありませんでした。毎日毎日、訓練と馬の世話でこき使われたことを覚えています。戦地に行くことはありませんでした。

 昭和20(1945)年3月13日、夜半から始まり未明まで続いた大阪大空襲で、自宅と何もかもが焼きつくされました。わが家はスッカラカンの裸にされてしまいました。自分の幼いころの写真や家族の写真さえ1枚も残っていません。そのとき杉本町の兵舎にいて「空襲でなんば辺りが全焼した」と聞き、翌朝だったと思いますが、上官に車で連れて行ってもらいました。家の形はなく、見渡す限り焼け野原で、灰や焼け焦げたものが一面に広がっており、自宅のあった場所さえ判りませんでした。

 偶然、自宅にあった大きな鉄製の火鉢の取手部分が灰の中から突き出ているのが目に止まり「ここが自宅跡」と分かったのでした。幸いに家族は逃げて全員無事でした。しかし、住むところがなく、寺町筋のお寺に終戦までお世話になりました。自宅の焼け跡は、何が何だかわからないうちに他人が占拠してしまい、土地まで盗られてしまいました。

 戦争中は、ほかにも食べ物は少なくまずい、着るものは少ないなど、口にしたくないような嫌なことがいろいろ多くありました。そんな苦労をしたことは考えたくもなく、できれば心に蓋をして忘れたいと思い、忘れよう忘れようとしてきました。それほどいやな時代でした。若い人にいまさら辛い時代のことをお知らせしても、ピンとこないのではと思っています。

 戦争は喧嘩だし人殺しだし、自分の意見を押し通そうと「原爆を持たないとうまくいかない」という人もいますが、こんな競争をしなけりゃ平和が保てないのでは、キリがないことです。どっちかが折れないとうまくいかないし、大変なことになります。若い人たちはもっと戦争の本当の姿を知らないといけないと思うのですが、まず怖さを知ることだと思います。戦争だけは二度としてはいけません。

 私はあと4ヵ月で100歳の誕生日を迎えます。自分でもまさかと疑う年をとってなお、これといった病気もなく、こういう毎日が送れることは、ありがたいことだと感謝しています。いまは娘やヘルパーさんに親切にしてもらっており、いつの間にか、若いときには口に出てこなかった「すまないね」「ありがとう」がスッと出てきます。うれしいことですな。

 戦争体験は相当昔のことだし、つらい時代だったし、忘れよう忘れようとしていたからか、細かいことは思い出せません。こんな話でもお役にたてるんでしょうか。

(インタビュー、小倉・荒川、2011年6月1日)

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