2012年6月4日月曜日

戦争体験を語る:「どんな理屈をつけても戦争はみじめなもの」——三池尚道さん



上・三池尚道さん

 私は一生懸命働き、貧乏な生活をして頑張ってきましたが、子や孫たちは立派になってくれたし、よくしてくれるし、恵まれています。戦争時代のことを話してやると、「じいちゃん、大変やったんやね!」と、よく聞いてくれます。本当に感謝して過ごしています。いまの願いは、若い人たちに私たち戦争経験者の気持ちを分かってほしいということです。そして日本の平和を守ってほしいと思います。どんな理屈をつけても戦争はみじめなものですわ。平和を守るためにお役にたてるならと思い、体験したことを話してみます。

小学校や会社でも軍事教練

 私は昭和2年、男ばかり5人兄弟の4番目として生まれ、大阪市福島区海老江で育ちました。当時から体は大きかったので、相撲は強かったですね。しかし、戦争ごっこはなぜか嫌いでした。尋常小学校の上級生になると軍事教練がありましたが、熱心にはやりませんでした。

 学校を卒業し、昭和16年4月、此花区にある住友金属に入社しました。ここでは、午前は工場内の学校で勉強をし、午後は仕事という生活でした。こここでも軍事教練があり、私にとってきびしくきついものでした。ほふく前進したり、銃を担いで走ったり。横山(いまの和泉市)の山中で特別野戦訓練という、ひどい訓練を一週間もやらされたこともあります。ここでもますます戦争嫌いになりうっとうしくなっていました。

仲間の『資本論』携行で特高警察に

 その頃こんなことがありました。その日は何かの理由で昼で仕事を終わり、20人ほどで朝日橋を歩いている時、特高警察に「おいこら!」と呼び止められ、全員手錠やひもを掛けられ、此花警察に連れていかれました。何が何だかわかりません。取り調べが始まって分かりました。誰かがマルクスの『資本論』を持っていたそうです。それで「『資本論』を読んだやろ」と聞かれたが、当時の私はマルクスのマの字も知りませんでした。「知らない。読んでない。」と何度いっても「嘘つけ!読んだやろ!」と決めつけて、こちらのいうことは聞きません。夜中になって、4人を除いて帰してくれました。その4人がその後どうなったか、会社には二度と来ませんでした。

16歳で海軍予科練志願、死ぬ覚悟

 学校の先生は私が戦争嫌いなことが気に入らないらしく、私にだけ名指しで決めつけたように、「兵隊に行け!」と何度も命令のようにいいました。自分では行きたくないと思っていましたが、社会全体がそういう流れにあり、口に出して「いやです」ということもできず、当時「若い血潮の予科練の 七つボタンは桜に錨…」と歌われた海軍予科練(少年航空兵のこと)に志願してしまいました。16歳でした。このとき、「兄も戦死していたし、自分も死ぬことはしょうがないな!」と覚悟をしました。

 昭和18 (1943) 年3月末、茨城県土浦にむかい、海軍予科練14期生として入隊しました。軍隊の中はひどいものでした。何か上官の気に入らないことがあると、「ビンタ」と「バッタ」の嵐です。「バッタ」とは一列に並んで壁に手をつかせ、ズボンを脱いでお尻をつきだし、上官がその尻を叩くことです。はじめは青竹で叩きますが、何人かでバラバラに割れてしまいます。今度はツルハシの柄で叩くんです。しかも力いっぱい。どづかれない日はなかったですね。

軍隊の非人間的扱い

 治らないうちにまた叩かれるのですから、お風呂のとき見ると、みんなお尻が血豆で青くなって、固くなり、段がついていました。一人がへまをすると皆が叩かれるんです。辛抱しきれなくて夜間にトイレで、ベルトで首をくくって自殺した人が3名いました。自分もそんな気を起こしたこともありましたが、「しゃーない!」と、あきらめていました。軍隊とはこんな人間扱いしない所かと、ますます戦争嫌いになりましたが、もちろん口にすることは仲間内でも出来ませんでした。

 飛行機の練習は、「赤とんぼ」(写真参照)という練習機でやりました。どれも調子わるくて、空を飛んでいるとき、突然エンジンが止まったことがありました。ぐんぐん降下しているとき、セルを必死にまわしていたら、やっとエンジンが掛かって命拾いしたことがありました。もちろん落ちて亡くなった人もいました。


「赤とんぼ」こと、海軍93式中間練習機

 半年たった昭和18年9月に、岡崎(現在の三河安城市)に配属になりました。14期生の中には鹿児島県鹿屋基地や沖縄に特攻隊として配属されたものもいましたが、みんな死んだようです。岡崎で辛かったのは、雪の積もった飛行場で30分間の腕立て伏せでした。素手でやらされるのですから、手が冷たく、やがて感覚がなくなっていきます。途中でやめると、ツルハシの柄で叩かれ、半殺しにされました。ひどい訓練でした。食料については、ぜい沢はできませんでしたが、量は十分あり、終戦まで不自由することはありませんでした。

人間魚雷艇の訓練

 このころから練習するにも飛行機がない状況になってきました。そうするうち、昭和18年秋頃、14期生ばかり静岡の戸田(へだ)に配属されました(現在の静岡県沼津市戸田海岸)。ここの切り立った海岸沿いの山をくりぬいて、「丸大」の基地作りをすることと、訓練をすることが目的でした。「丸大」とは海軍独特の名前で、いわゆる敵船に魚雷を抱いて体当たりする一人乗りの人間魚雷艇のことでした。(次号に続く)

『憲法九条だより』第17号(2012年5月10日)から