大阪空襲訴訟団の安野輝子さんからメールで以下の連絡がありましたので、お知らせします。
3月24日、大阪府泉南郡田尻町の議会に同町在住の吉田榮子さんが提出していた「空襲被害者等援護法(仮称)の制定を求める意見書」に関する陳情が、超党派で可決の見込みとなりました。陳情書が可決されるのは大阪府で初めてです。吉田さんの奮闘の成果で、全議員が賛成していただけそうです。趣旨は、国会と政府に、「『空襲被害者等援護法(仮称)の制定を求める意見書』を提出してください」というものです。詳しくは添付をご覧ください。
私たちは、そのときを喜び合うために傍聴に行きます。いまのところ支える会の米澤清恵さんと私が参加を予定しています。傍聴席が3階で、エレベーターがないそうで、私は40段の階段は上れそうもなく(義足のため)、傍聴を断念しようと思ったところ、役所の方で3階までもち上げてくださるそうで、大阪府下初の陳情可決のときを傍聴できそうです。
みなさま、このことを広く伝えて、傍聴もしていただきますよう、よろしくお願いいたします。なお、私の住む堺市は昨年陳情書を提出の運びとなりましたが、可決の見込みが得られませんでした。堺市は過去に、大きな空襲被害を受けていますので、堺市民を守るためにも陳情書の成立を望んでいます。今年中にもう一度、陳情書の提出をしたいと思っています。よろしくお願いいたします。安野輝子陳情書
(注:趣旨部分は安野さんのメールにある通りなので、理由部分のみを以下に引用します。)
<理由>
太平洋戦争の終結から68年が経過した今日まで、本土空襲の被害者や、沖縄地上戦、艦砲射撃などの民間人被害者への国による補償、救済は一切なく、見放されてきました。国が、旧軍人・軍属とその遺族には総額52兆円の国費を投じて年金、恩給を支給し、救済してきたのと対照的です。
この不条理を正すため、全国の空襲被害者らが2010年8月、東京で全国空襲被害者連絡協議会を結成し、「空襲被害者等援護法」(仮称)の制定をめざして活動してきました。また、大阪、東京では、空襲被害者を放置してきた国の責任を問う集団訴訟も進められました。
先の大戦による甚大な被害は、全国200都市におよび、死者は推定50万人を超えます。大阪府では死者1万2620人、行方不明者2127人(1945(昭和20)年10月大阪府警察局調べ)の計約1万5000人の犠牲となったといわれています。
幸いなことにわが田尻町は太平洋戦争中、空襲被害を受けませんでしたが、当時大阪市など他都市で空襲に遭った多数の住民が暮らしています。陳情者の吉田榮子(昭和36年に田尻町に転入)は、10歳のとき、45年3月13日深夜から14日未明にかけての第1次大阪大空襲で、両親と姉弟、叔父一家の家族9人を失い、孤児となりました。自身は学童疎開で命を取り留めたものの、大阪市浪速区河原町2丁目1459番の自宅は全焼し、中学卒業まで親戚をたらい回しにされ、食糧難の中、厄介者扱いされて心休まる場所はなく、心身が深く傷つきました。また、国が戦災孤児を一切放置したことが、トラウマをさらに深いものにしました。その後も、国は空襲犠牲者の実態調査すら行わず、被害者を放置する中、69年たった今も、癒やしを得られていません。そして、国の無策のために、空襲当日だけでなく、戦後も苦しみを背負う体験は、決してめずらしいものではありませんでした。
ドイツや英国、フランス、イタリアなど、先進国の多くは、第二次世界大戦の民間人の戦争被害者を、軍人・軍属と区別なく等しく救済、補償しています。世界を代表する先進国となった日本は、戦後68年を経ても、なぜそれに近づくことができないのでしょうか。高齢となった空襲被害者はいま、「このままでは死ぬに死にきれない」という思いを持っています。
国会では、この問題について超党派の「議員連盟」が結成され、2112年6月13日には「立法案要綱」を確定し、援護法の成立に向けて幅広い賛同が広がるように、国会内外で活動を進めています。
激しい空襲を受けた長崎県佐世保市の市議会は、すでに意見書を議決し、国会に提出しています。また東京都三鷹市、立川市、東村山市、武蔵村山市、八王子市、調布市も同様の意見書を採択し、国会に送りました。
わが田尻町もぜひ、「空襲被害者等援護法(仮称)」の制定を求める意見書を町議会で採択し、国会および政府に提出していただきますようお願い申し上げます。
(文責多幡)
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