戦争と空襲による被害の責任を問う裁判「大阪空襲訴訟」は、2013年1月16日の大阪高裁控訴での「控訴棄却」判決を受け、最高裁判所での公正な審理を求める取り組みが続けられています。さる3月5日、寒い悪天候の中、上告人21名を代表して安野輝子さん(堺市西区)が大前治、西晃両弁護士とともに上京し、最高裁への要請を行ないました。その際に安野さんが読み上げた要請書のコピーをメールで貰いましたので、ここに紹介します。戦争の悲惨さと、この裁判で原告が勝訴する大切さについて、皆さんの理解の一助になれば幸いです。(多幡)
この国の津々浦々の街が、火の海となった大空襲から今年は69年。空襲で被災して、かろうじて命を取り留めた私たちも、生きる日は、後わずかとなってしまいました。そんな人たちが起こした大阪空襲訴訟は、黒煙に消された50万の親兄弟や、友達、焼夷弾に燃えた手足、爆弾の破片で千切れた足の無念を背負って訴訟という行動に立ち上がって今日まできました。当時、私たちは子どもでした、戦時中の物不足のなかでも空襲に遭うまでは親の元で幸せに暮らしていました。空襲に遭い学校にも行けなくなり職にも就けず、戦争で人生を狂わされてしまいました。地を這うように生きてきて、どうしてもこの理不尽を国に問いたいと訴訟をいっしょに起こした仲間が、3人も無念のまま他界しました。その3人のことを、今日、この最高裁判所でご報告し、その思いをくみとってほしいと思います。まず、谷口佳津枝さんのことをお話しします。谷口佳津枝さんは、2012年の夏、無念を抱いたまま癌で亡くなりました。4月には、国民小学校1年生になるはずの、1945年3月13日の大阪大空襲で、お母さんと父親代りのお兄さんを焼夷弾で焼かれ、孤児になりました。あの日の夜、お母さんが「今日の空襲は大きいらしいので、お母ちゃんは家を守らないといけないので、あんたはお姉ちゃんと先に行ってなさい」と着物を着せてくれて、お姉ちゃんと出て行く[谷口さん]を、いつまでも見送ってくれました。谷口さんは、それがお母さんとの永遠の別れになるとも知らず、「今日のお母ちゃんは優しいなぁ」と思いながら、お姉ちゃんと手を取り合って火の中をくぐり逃げていきました。生玉神社の大楠の木がパチパチと燃えあがり、とても大きな火が上がるのを怖いなぁと思いながら見て走りました。焼け落ちた小学校が避難者の収容所になり、そこで何日も待ちましたが、お母さんは迎えにきません。たくさん居た避難者には、次々に家族が迎えに来ました。谷口さんはついに最後の避難者になってしまい、ようやく叔母さんが迎えきたのです。そして、たくさんの遺体が収容されている場所に行き、お母さんとお兄さんの焼死体が並んでいるのを見ました。そのときは足が震えて、かぶせてあった筵を覘くことは出来なかったと、話していました。お兄さんは顔や服装では見分けがつかず、鉄兜に書いてある名前で分かったそうです。その後、お母さんの田舎の親戚にお姉さんと別々に引き取られて育った谷口さんは、食糧難の時代、親戚も子どもがいて大変ななかを育ててもらいましたが、母がいないために辛い思いをした、戦争さえなかったらと、いつも涙を拭いていました。次に、小見山重吉さんのことをお話します。「わしの青春は15までやった」という小見山重吉さんは、1945年3月13日の夜10時ころ、お母さんに「空襲やで、起きや」と布団をはがされて、空襲警報が鳴るなかを、軒先に掘られた防空壕へ飛び込みました。飛び込むやいなや、焼夷弾の轟音と光と熱をあびて、顔と手足から全身に火傷を負いました。豪快でやんちゃな小見山さんが、「あんたは傷害が足でええな!わしは、朝起きて洗面台に立つといやでも顔を見てしまう」と嘆いていました。顔には赤く火傷の跡が残り、5本の指はくっついてしまいました。 その姿をみた人たちから「猿!」、「やけど!」などと呼ばれながらも、苦労して稼いだお金で、くっついた5本の指を切り離す手術を大阪大学病院で受けました。その後は、お父さんが経営していた工場を再び興したり、小見山さんよりひどい火傷で産婆さんが出来なくなったお母さんの戦後の生活を支えるなど、必死で生きてこられました。曲がって硬直した指を見た孫から、「おじいちゃん! どうしてジャンケンできないの?」と言われた小見山さんは、孫を同じ目に遭わせてはならないと思い、この裁判に立ち上がられたのです。小見山さんの墓前に、何としてもよい報告がしたいと思っています。次に、永井佳子さんのことをお話します。永井佳子さんは、女学校の教室で空襲警報を聞きました。校庭に並んで掘られた蒲鉾型の防空壕に避難しましたが、そこも猛烈な焼夷弾の火が襲ってきて、反対側の入口にいた級友は、大火傷を負って即死だったそうです。永井さんは、あと少しのところで助かりましたが、学校では救護もしてもらえず、家に帰ろうとして力なく街をさまよっていると、「あんた、えらい燃えてるで」と警官らしき人に言われて、町医者に連れて行かれました。着ていたセーラー服ともんペをハサミで切られていると、お母さんが駆けつけてきました。ベッドにいた佳子さんを一目見たお母さんは、あまりにもひどい火傷の姿をみて、「女の子だから、このまま死んだほうが良いかもしれない」と一瞬思ったということを後年、お母さんから聞いたそうです。永井さんは、学校で被災したのに学校も知らん顔、国も学校も責任を執らない。悔しい思いで60年生きてきたとき、大阪空襲訴訟を知り、一人ではないのだ、私と同じ悔しい辛い思いで生きている人がいるのだ、と駆けつけてこられたのです。69年間、国は空襲犠牲者の人権を無視し謝罪も補償もしないで、同じ戦争犠牲者の元軍人軍属には52兆円という援護をし、民間空襲犠牲者には0円と差別してきました。私たちはこの国に生まれたこの国の民なのです。この国が起こした戦争に巻き込まれて親兄弟を焼かれ、手足を奪われ、友だちは目のまえで虫けらのように焼き殺されたのです。家はゴミ芥のように燃えてしまいました。これが、経済大国にもなった先進国なのでしょうか。欧州は、民間人軍人を平等に補償しています。この国は、国際的にも恥ずかしく国内的にも不安を残します。何事もなかったかのように、やり過ごそうとしているのは卑怯です。空襲被害は国の責任です。きちんと戦争の後始末をしてください。ましてや、政府は国民に「空襲は怖くない、逃げずに火を消せ」、「都市から避難をするな」と命令していました。危険な消火活動を義務付けて、空襲の被害を拡大した責任は大きいと思います。最後に私の事を少し聞いてください。私が、米軍のB29機が投下した爆弾の破片に、足を奪われたのは幼稚園の年長児の時でした。同じ破片が、後頭部に当たった近所の人は、その夜も明けきらぬうちに亡くなりました。地鳴りのようなうめき声が、出血多量で死線をさまよい意識がうすれていく私の脳裏に耳にやきついて今も離れません。その人は、まだ20歳半ばの銀行員でした。生かされたのか生き残ったのか、私には朝がきたのです。生き残ったのも地獄でした。1945年7月16~17日のことです。爆弾の破片で、私の足はその場で千切れて、どのくらいの時が経ったのか、遊んでいた弟や従姉の泣き声で気がついた時は血の海の中でした。6歳になったばかりの私は、足が無くなったということがどういうことなのか、よく解りませんでした。幼稚園で蓮華草で首飾りを作ったり小さな虫などと遊んでいたからでしょうか、トカゲの尻尾が切れても、また生えてくるように、私の足も生えてくると思っていました。あれから69年経った今も、足は生えてきません。私の足と青春の日々を還してください。毎朝目が覚めると義足を付けないとトイレにもいけません。ベッドで義足を付けることから一日が始まります。私には、戦争が風化することなどありません。[このままでは、国は]あのおびただしい戦争の犠牲を払って出来た憲法も踏みにじ[ることにな]ります。黒煙に消された人たちの、私たちの、人生はなんだったのでしょうか。最高裁判所でもしっかりと審理をしていただき、私たちの思いを、人生を、正面から受け止めた判断をしていただくようお願いします。以上
注:引用中、[ ]内は引用者による修正または補足の部分です。
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