さる1月27日、アメリカのフォーク歌手で、反戦などの社会運動でも知られたピート・シーガーが、94歳で死去しました(たとえば、こちらに報道されています)。筆者が彼の名を知ったのは、遅まきながら、つい3年ほど前のことで、彼が『原爆を許すまじ』を日本語で歌っている YouTube 録画を見てのことでした。(その録画は違法なものだったのか、残念にも、間もなく消去されてしまいました。ついでながら、筆者は近年、8月の本会の署名・宣伝行動の日に『原爆を許すまじ』を街頭で歌っています。)
そのピート・シーガーに関連して、大阪空襲訴訟団の安野輝子さんから2月4日付けでメールを貰いました。安野さんの知人で埼玉県在住のT氏が、ピート・シーガーの訃報に接して思い出した記憶を朝日紙に投稿し掲載されたことを彼女に知らせてきたメールを、他の知人たちにも一斉に転送するので、よかったら読んで下さい、という内容でした。その投稿とT氏のメールを合わせると次のことが分ります。
ピート・シーガーが最後に来日したのは1986年、広島市で開催された「ノーモア・ヒロシマ・コンサート」とされていますが、実はその後も非公式に来日していて、1889年(多分)の来日時にT氏の兄君がシーガー一家の通訳をしていました。それで、兄君の家で歓迎パーティが開催され、まだ20代だったT氏も参加し、一家と交流したのです。ピートの最愛の妻、トシさんは広島出身の日本人を父に持つ日系2世で、墓参のために一家で来日したのだったということです。そして、「[ピートは]『原爆の恐ろしさと米国の責任について子どもたちに伝えたかった』と話してくれた」ことが、T氏の投稿に記されています。
これを読んで、ピート・シーガーは『原爆を許すまじ』を日本語で歌っていた、という筆者の断片的知識が大いに補完されました。
多幡記
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