2011年1月17日月曜日

戦争体験を語る

旧朝鮮で経験した敗戦と帰国の苦難

鳳東町 藤田 均さん


 自分は朝鮮(当時)で生まれ育ちました。父は北海道、母は福岡出身ですが、平壌の西南、大同江という内海に面した町、兼二浦(現在の松林市)で昭和10年4月、5人兄弟の3番目としてこの世に生を受けました。

 兼二浦は日本製鉄(後の八幡製鉄)の町で6千人の日本人が暮らしていました。父は社員でしたが、昭和15年病死の後、母が働くようになり、ずっと社宅に住んでいました。町は怖いことも無く、表向きは平和でしたが、日本人が悪いことをしており、朝鮮人は抵抗もせずジッと辛抱していることは、自分のような子どもにも分かりました。例えば、日本人の奥さんがリンゴの入った籠を頭にのせて売っている朝鮮女性の足を引っ掛けて倒し、転がっているリンゴを笑いながら持ち帰るのを見かけたことがありました。

 終戦の日ですが、油をとるための松の根を持って校門に入ったら、校庭で玉音放送が始まるところでした。整列して聞きましたが、雑音で校長先生も内容が分からなかったようです。1~2時間後に日本が戦争に負けたと知りました。社宅は何時もどおり平静でした。間もなく、日本の神社が燃やされたり、朝鮮人の戦勝行列が近くを通ったりしましたが、日本人が危害を加えられることはありませんでした。

 8月30日頃「2~3日で帰らせるから身の回りのものを持って集まれ」と、刑務所跡らしい施設に連れていかれ、翌四月まで8ヵ月隔離されました。4畳半程度の部屋に兄弟5人と母と叔父と祖母の9人が入れられましたが、まだよい方でした。出入り口は北朝鮮保安隊が見張っていましたが、施設内は自由で、身の危険を感じることはありませんでした。食べ物はサツマイモ一切れや、固いとうもろこしでした。寒いし何もすること無いしお腹はすくし、辛い期間でした。ここでは栄養失調で亡くなったり、女の子が目が見えなくなったり、男の子が歩けなかったり、発疹チフスが発生したり、弱いものから食べ物を取り上げるなど悲惨なことを見たり聞いたりしました。

 氷が溶け出した頃、集団で夜中に船や汽車での脱出が始まりました。たまに失敗して連れもどされたところも見かけました。自分は北朝鮮保安隊から帰国許可を得た病人部隊に、盲目の叔父叔母と加わりました。20歳の叔父が隊長になりました。母や兄弟は2日前の夜、船で脱出していました。自分には何も告げていませんでした。無事に日本へ帰れるか、再び親子が出会えるか分からない中、母なりに考えた辛い決断だったのでしょう。


 4月10日「兼二浦駅」から汽車に乗り、「黄海黄州駅」で降りて宿に泊り、保安隊の臨検を受けました。翌朝再び汽車に乗り、38度線近くの「海州駅」に向かいました。駅に止まるたびに隊長の叔父が駅員に包みを渡すのを窓から見ていました。受けとらなくても「気をつけて!」という駅員さんもいれば、受け取っても悪態つく駅員さんもいました。叔父はどんな人にもぺこぺこと頭を下げ続けていました。「海州駅」にロシア軍がいるからと、二つ手前の駅に降り、小さい家で40人が座ったまま寝ました。

 この民家は38度線のわずか北に位置し、翌日から国境を越える苦しみが始まりました。明るくなって出発。ぬかるみの赤土農道を病人は荷車で。途中から雨で、さらにヒョウが混じり、リュックの芯までボトボトになっても歩き続けました。寒かった記憶はありません。それほど緊張していたのだと思います。40人の列もバラバラになり、立ち止まったり引き返したり…。夕方になってやっと一軒の農家に全員揃いました。区切りはなかったですが、どうやらこの民家は国境線の中だったようです。翌日もロシア軍と北朝鮮保安隊に見つからぬよう、農道を歩き続けました。

 2日間歩いて南鮮の「泉決駅」(多分)に着き、有蓋貨車に詰め込まれ、2日間ほどかかって「ソウル駅」に着きました。4月15日と記憶しています。南鮮でも食べ物はなくコーリャン、キビ、大豆が少し入ったお粥が大人子どもの区別なく配られました。誰一人苦情も言わず、トラブルも無く、静かに行動していました。「日本へ帰りたい」、「日本は戦争に負けたのだからおとなしくしないといかん」と不安に思っていましたが、朝鮮人から嫌がらせをされたことはありませんでした。

 「ソウル駅」から有蓋貨車に乗せられ、40人揃って「釜山駅」へ着きました。そこで偶然母と再会できました。引き上げ船で福岡に上陸したのが昭和21年4月18日。朝鮮にいるとき「日本は美しい国だ」としつこく言われていました。上陸して生まれて初めて見た日本は、一面焼け野原で美しくはありませんでした。(元自治会長)

(聞き手と写真=小倉)
『憲法九条だより』No. 13(2011年1月1日)から

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