2013年1月31日木曜日

"政府は謝罪と補償を":大阪空襲訴訟、原告21人が上告

 太平洋戦争末期の大阪大空襲などで甚大な被害を受けた被災者・遺族に国が救済や補償を怠ったのは憲法違反として、政府に謝罪と補償を求めた原告21人が、1月29日、請求を棄却した大阪高裁判決を不服として、最高裁に上告しました。1月30日付け『しんぶん赤旗』がこれに関連して伝えている内容を、以下に紹介します。

 大阪空襲訴訟原告団・弁護団は同日声明を発表しました。声明は、1972年に最高裁大法廷が表明し、87年の名古屋空襲訴訟の最高裁判決でも繰り返された「戦争被害は国民すべてが等しく受忍(我慢)しなければならない」とする、いわゆる「受忍論」を復活させたと、大阪高裁判決を批判しています。「受忍論」は、大阪地裁判決や東京大空襲訴訟の東京地裁・高裁判決では採用しなかったという流れになっていましたが、大阪高裁判決はこれを無視したのです。

 声明はまた、軍人や軍属らを補償対象とする一方、援護法の対象外とする空襲被災者との格差は、今後も拡大し続けると指摘しています。そして、判決が「原告らの思いに応えるものとは到底言えない」と述べ、「今後最高裁で、さらなる努力を続ける」と決意を表明しています。

 原告団代表世話人の安野輝子さんは、「5年間無我夢中でたたかってきました。最高裁で原告が期待している結果を得たいと上告しました」と語りました。

 ——補償に格差のある事実に注目すれば、「受忍論」に根拠のないことは、火を見るよりも明らかではありませんか。

多幡記

2013年1月29日火曜日

九条の会事務局が記者会見:4氏メッセージ発表

 昨年12月の総選挙の結果、自民・公明両党だけで衆院の3分の2を占めて第2次安倍内閣が成立し、これに日本維新の会、みんなの党が改憲で連合する状況のもとで、「九条の会」事務局は1月28日、国会内で記者会見を開きました。『京都新聞』(記事「沢地さん『憲法9条最大の危機』:九条の会、大江さんら訴え」)や『しんぶん赤旗』(記事「九条の会、3月に学習講演会:事務局が会見」)が報じました。

 後者の記事によれば、記者会見では、九条の会事務局と九条科学者の会の共催で3月3日に、学習講演会「憲法9条の新たな危機に抗して」を開くことが発表されたということです。講演会では、法政大学の五十嵐仁教授(政治学)による「日本政治の右傾化と憲法の危機」と、大阪市立大学の松田竹男特任教授(国際法)による「ここが危ない! 集団的自衛権」の二つの講演が行われます(講演会の詳細はこちらに既報)。

 記者会見では、また、「九条の会」の小森陽一事務局長が、「改めて全国で7千を超える草の根『9条の会』が今こそ運動を活性化させ、運動を強めていきたい」と述べました。さらに、「九条の会」呼びかけ人の4人のメッセージも発表されました。各氏のメッセージの大要は次のように報じられています。

 作家の大江健三郎さん:まったく新しい全国規模での大きい運動を、もうすでに老年の呼びかけ人のひとりとして、なによりも祈念します。
 憲法学者の奥平康弘さん:安倍首相が打ち出すはずの集団的自衛権行使の可能論(解釈による憲法改正)を断々固として拒否しましょう。
 哲学者の鶴見俊輔さん:今度の選挙の結果をみると、九条の会の働きは、これまで以上に大切になると思います。
 作家の澤地久枝さん:全国に9条を守ろうという市民のつながりが生まれ、それは反原発の流れに重なりました。選挙結果に振りまわされず、新しい市民社会に希望をつないでゆきましょう。

多幡記

2013年1月25日金曜日

「九条の会」メルマガ第157号:安倍政権の危険な動きが始動

 表記の号が2013年1月25日付けで発行されました。詳細はウェブサイトでご覧になれます。運動に活用しましょう。以下に、冒頭の重要記事と編集後記を引用して紹介します。なお、メルマガ読者登録はこちらでできます。
前号予告の九条の会事務局主催「学習会」は会場が変わります。主催も「九条科学者の会」と共催になります
  • 集会名称:九条の会事務局・九条科学者の会共催 学習会
  • テーマ:憲法9条の新たな危機に抗して
  • 日時:3月3日(日)13:30~17:00(開場は13:00で、13:15からオープニングアクト「ベアテ・シロタ・ゴードンさんを偲んで『映画 日本国憲法』の一部上映」があります)
  • 会場:明治大学駿河台キャンパス・リバティタワー大教室(JR御茶ノ水駅お茶の水橋口下車、地図はこちら
    講演1「日本政治の右傾化と憲法の危機」五十嵐仁氏(法政大学大原社会問題研究所教授・政治学)
    講演2「ここが危ない! 集団的自衛権」松田竹男氏(大阪市立大学特任教授・国際法)
    講演者から質問への回答 コーディネーター小澤隆一氏(東京慈恵会医科大学教授・憲法学)
  • 参加費:500円
  • 共催:九条の会事務局、九条科学者の会
編集後記~安倍政権の危険な動きが始動しています
 報道では第1次安倍政権の失敗を教訓に、参院選が終わるまでは改憲問題などを急がず、アベノミクスと呼ばれる経済政策の推進などに集中するかのように語られますが、どうしてどうして、改憲派でかためた政府・与党はじっとしてはいられないようです。アルジェリアのテロ事件を口実に海外派兵が可能なように自衛隊法を変えようとしていますし、2月に予定される訪米ではオバマ大統領に「集団的自衛権の解釈変更の決意」を手みやげにするようです。大阪での体罰事件なども使って教育政策の一層の反動化も狙われています。私たち「九条の会」としても見逃すことのできないような動きが相次いでいます。しっかり学びあい、いっそう多くの人びととの対話の運動をすすめるときではないでしょうか。3月の学習会への積極的なご参加をお願いします。

2013年1月22日火曜日

戦争体験を語る:辻尾俊貞さん

「ただただ、こわかった空襲!」
鳳中町・辻尾俊貞さん
 この記事は、2010年3月13日付けで本会第2ブログサイトに掲載したものの転載です。(第2ブログサイトはいずれ消去する予定です。)
I

 私が6歳の時の経験です。ただただ「こわかった!」という想いは、幼い時ながら今でもありありと覚えております。とはいってもまだ幼稚園に入る前のことです。その時考えていたことや具体的なことになると、記憶がとびとびであったり、あやふやであったり、見たのか聞いたのか後で知ったのかなど、不明確なところが沢山あります。不明確なところは極力除いてお話しさせてもらいますが、そんなんでお役に立てるかどうか心配ですが聞いてみてください。

II

私の家は鳳駅西口を出たところにあり、7人家族でした。父は軍隊に入り森の宮で食料調達係りをしていたようで、家にはおりませんでした。その日、昭和20(1945)年7月9日はいろいろありました。空襲警報が鳴り、爆撃機の機銃掃射があり、電車の客が走って逃げてきて、私の家の縁の下に隠れることなど何回かありました。夕方は西南方向の空が真っ赤っかとなり、和歌山が空襲と聞きました。

その夜中です。母の大きな声に起こされました。空襲警報が鳴り響いていました。1回目攻撃の始まりでした。外に出ると空襲は始まっており、焼夷弾の落ちるのが花火みたいで、「きれいだなー」と見とれてしまったことを覚えています。すぐに屋敷の中にある防空壕に逃げ込みました。10人は入れる大きさで、隣の2家族も入っていました。入ってすぐ「駅の方が燃えだしたよ」と聞きました。

防空壕に逃げ込んだのは、母と1歳、4歳の妹と自分の4人で、叔父さん夫婦たちは「家が燃えたら火を消さないといかんから…」と入りませんでした。1回目の空襲が終わったとき、「ここにいては危ない!」ということで、母は1歳の妹を背負い、両手に4歳の妹と自分の手を引っ張り、さらにトランクを1個持って、浜寺公園めざして逃げました。

このトランクで笑えない話があるのですが、いざという時持って逃げるように日頃から通帳など貴重品を入れて準備していたようです。この日、前回出していたことを忘れて慌ててそのまま持ちだし、浜寺公園について開けたら靴下一足だけ入っており、母は悔しがっていました。

話を戻して、わが家を出て家々がごうごう燃えているそばをぬって走りました。今の星野医院のところまで来たとき、(そこは当時芋畑でした)頭の上から焼夷弾の雨が降ってきました。それも上からではなく、後ろから斜めに追いかけてくるように降ってくるのです。後ろを見ながら前に進むのです。それでも耳元をかすめるようにビュンビュンと降ってきました。一人に当たったところを見ました。逃げるのにけんめいで、人をかまってる余裕もありません。途中、野田共同墓地まで来ると、家もなくそこで空襲がやむまで待ち、そのあとまた歩きだし、やっと着いた浜寺公園で夜を明かしました。

朝になって歩く帰り道、「鳳駅前は焼けて、全滅です」と聞かされ、途方にくれていましたが、墓の前の木寺さんの家が残っており、そしてわが家も焼け残っていると聞き、嬉しくなりました。本当に残っていました。鳳中町で40軒たらずが焼け残ったと聞いています。

III

これからは家に帰ってから見たり聞いたりしたことです。わが家には爆弾2発と焼夷弾12発が落ちました。爆弾1発は井戸の中、もう1発は裏の道に落ちて爆発し、隣が丸焼けになりました。焼夷弾は、家の中には5発で、廊下に2発、畳に1発、天井裏に1発、風呂に1発、あとは庭でした。家の中の4発はいずれも屋根や天井も突き破り、仏壇の前や床の間や部屋に落ちて燃え上がりました。焼夷弾というのは油が燃えるので周りがベタベタです。廊下はどろっと油が流れて燃えていたそうで、燃え跡が広がっています。そのとき叔父さん夫婦は、「庭の池の水をバケツで汲んで消したんだよ!」と自慢そうに話していました。どうやら焼け残った家は、火が付かなかったのでなく、消火に成功したところが多かったようです。

当時の鳳には水道はなく井戸水で生活をしていました。しかし火事などのとっさのとき井戸水を汲んでいたのでは間に合わず、役に立ちません。当時の「防空訓練」では、風呂の水を抜かずにおいて、いざと言うとき消火に使うことが奨励されており、初期消火にそれも役に立ったようです。後になって、わが家の池の水が家を守ってくれたようなものだと聞かされ、代は変っていますが、今でも大切にしています。空襲の残骸としてわが家に、焼夷弾の不発弾と焼夷弾の傘とカラの焼夷弾が残っていましたが、間もなく軍が取りに来て渡したそうです。その後出てきた爆弾は今でも記念に残しています。写真を見てください。

写真1 庭の池。この池の水のお陰で、焼夷弾で火のついた
家を守ることができたと、今でも大切にしています。

写真2 仏壇のあった部屋。ここの天井を破って焼夷弾が落ち、
燃え始めましたが、叔父さんたちがバケツで消しました。

写真3 傷痕のある床。ここにも焼夷弾が落ち、板に傷痕が残っています。

写真4 燃えた襖。この部屋に落ちた焼夷弾が燃え、この襖の
一部を焦がしました。その部分に紙を当てています。
父親の描いた襖で、大切にしている作品です。

写真5 写真6 焼夷弾の油が燃えながら流れ、その痕が今でも黒く
残っています。木が焼けているので拭いても取れません。

写真7 庭で見つかった砲弾。戦後見つかりましたが、いつ、どうして庭にあった
のか不明。そのまま記念に保有しています。サイズは、高さ26×底8.5センチ。
弾薬の穴2.5センチ。重さは6.8キロありました。

後日同居の叔父から聞いた話です。この日の空襲は、野代から始まり、鳳駅から、でんでん坂に沿って、軍需工場だった旭精工までのコースでした。でんでん坂にある野田だんじり小屋も燃えましたが、地元の人たちと近くにいた兵隊さんたちが地車を引き出して助かったそうです。地車はその後取り替えた屋根以外が今でも黒くすすけているのは、この空襲とその後いっとき野ざらしとなっていた時の痕だそうです。

7月10日だったと思いますが、朝、家の前の鳳駅ホームを駅員さんが走り回っており、電車の中からどこで燃えたのか焼死体を一体ずつ引きずり出して、大きな缶の中に放り込んでいたのを見かけました。

これも同じ日の朝だったと思うのですが、和歌山から石油を積んできた貨物車が、当時複線だった羽衣線鳳駅から少し羽衣よりに停車していて、火が出ていました。相当長期間燃えていたのを見ました。

母の里が和歌山県橋本市で、そこに何度か疎開したことがあります。そこでのことですが、橋本駅の近くの池で4、5人で泳いでいるとき、突然飛行機が現れ、こちらに機関銃をバリバリと撃ちながら向かってきました。近くにいたどこかのおじさんが池に飛び込み、ぼくの足を引っ張って沈めました。近くを玉がぴゅんぴゅんと水の中を飛んでいきました。幼いですから、機関銃で死ぬということが分っておらず、池に沈められたことの方をこわく感じたことを覚えています。

この時、橋本駅も攻撃を受けました。国鉄と南海線の渡り陸橋側壁にその弾の傷跡があるのを見に行ったことがあります。何年か前にもまだ残ってましたが、現在もあるかどうかは分かりません。

当時、米は配給で、かってに売り買いすることは禁止され、見つかると警察に取り上げられ、罰せられました。当時の警察はとても威張っており、取り締まりも厳しいものでした。それでも足りないので、ヤミ米といって田舎に買出しに行きました。見つからないように風呂敷に入れ、腰にくくり、その上にねんねこで赤ちゃんをおんぶして、見えないようしていました。ある日、母と買出しに行き、南海高野線で和歌山から帰る途中の紀見峠トンネルをぬけたところで、機銃掃射にあい、列車がトンネルへバックしたこともありました。

IV

空襲のあと、近所で家をなくした4世帯がわが家でいっしょに生活するようになりました。家ができるまでの間ということで、人数はわが家の7人を含め22人と覚えています。一家族一部屋でぎっしりいっぱい、食料はすべて出し合い分け合って仲良く助け合い、炊事もひとつの鍋で一所にして、わいわい言いながら家族みたいにしていましたが、いつもお腹はすかしていました。芋のつる、大根の葉っぱなど、食べられる草で団子を作ったりして、なんでも食べた記憶があります。それでも、そんなに苦労したという気持ちはありませんでしたが、親たちは大変だったろうと思います。同居は長い家族で1年半ぐらいだったと思います。

同じような助け合いは他にもあり、貸家2軒のうち1軒が全焼しました。残った1軒に3家族が同居し、それが2年ほどは続いていたように思います。

幼稚園に入る年になっても幼稚園がなく、いきなり小学校入学でした。鳳駅東口前のコクサイパチンコのある場所にあったのですが、空襲で燃えてしまったのです。その後しばらくして、鳳小学校講堂(現在の体育館)の中に仕切りをして、幼稚園としていた頃もありました。また現在の鳳南地域会館の場所に移ったこともありました。その後現在の場所で開園されました。

鳳小学校は空襲にはあいませんでしたが、なぜか教室が足らず、1年生が午前、2年生が午後というような、変則な授業が1年間ほど続いた記憶もあります。また、理由は分かりませんが小学校1年生のときに、教科書が手に入らず、近所の先輩の教科書を借りてきて母がざら紙に書き写し、それを教科書にして勉強したこともありました。なぜかその教科書をその後も大切にしていて、探せばまだ家のどこかに残っていると思います。

V

恩師である大学の元教授は廣島の被爆者でした。その時、暑いのでトラックに下にもぐり寝ていて丁度陰になり助かったそうです。もちろん被爆者手帳はもっていました。何度も原爆資料館へご一緒して、よくお話を聞きました。自分でも足を運んで手をあわせたこともあります。

幼い頃の、ただただこわかった体験と、恩師のような出会いを重ね平和の大切さと人と人が殺しあうことはあってはならんことの思いは強くなってきております。憲法九条をなくして戦争への道を進むなんてもっての外で、大切に守ってほしいと思っています。

(辻尾俊貞さんは、現在、鳳校区自治連合会会長の他、地域役員を歴任中)
[インタビュー・2009年12月23日、写真と文・小倉
「憲法九条便り」NO. 11(2010年4月1日)に短縮した形で掲載]

2013年1月20日日曜日

大阪大空襲訴訟:被害者の賠償請求、大阪高裁が非情な控訴棄却

 1945年の大阪大空襲など、米軍による五つの本土空襲の被災者ら 23 人が国に謝罪と計約 2 億 2000 万円の賠償を求めた集団訴訟の控訴審判決が 1 月 16 日、大阪高裁でありました。坂本倫城(みちき)裁判長は、原告の請求を退けた 1 審大阪地裁判決を支持し、原告側控訴を棄却し、「補償の対象範囲は立法裁量に委ねられ、補償を受ける者と原告との差異は著しく不合理とは言えない」と述べました(毎日新聞朝日新聞など)。原告の安野輝子さんは「非情な判決だ。被害を受忍せよとは、とても納得できない」と落胆したと報じられています(毎日)。

 この訴訟に原告の人々を支える活動を続けて来た本会世話人の浅井千代子さんは、次のように述べています。

 「16日、大阪空襲の裁判傍聴に参りました。席につかれたと思ったら、「棄却」と一言、黒い衣をひるがえして、忍者のごとく退席した裁判官。この国の実像です。疲れて帰って参りました。」

 後日の追記:大阪空襲訴訟原告団・支える会のブログに、1月18日付け記事「怒りの高裁判決」が掲載されました。

多幡記