2011年3月1日火曜日

憲法9条関係ツイート(2011年2月後半)


Japan has lived & kept Article 9, & it will (日本は九条を守り主権と独立を保つ): D. Rothauser's Letter to the Japan Times. Peace Phil Ctr http://bit.ly/dKFIeu (2011年2月18日)

昨夜午後7時の NHK ニュースで、税務訴訟 国敗訴 2千億円返還の件について、これだけの金があれば何々がどれだけ買えると巨大軍事備品を例に出した。憲法九条をもつ国の代表的な報道機関として、あきれた発想である。国民に軍事大国化の思想を植付けようとしているのか(2011年2月19日)

「北アフリカ・中東の激動続く:各国の独裁政権への積年の民衆の怒りが燃え上がり、歴史が大きく動いている。民主主義があり、市民の基本的人権が保障され、戦争をしない国という憲法の理念は、日本だけのものではない。」九条の会メルマガ112号編集後記 http://bit.ly/gmg3Ez (2011年2月25日)

多幡達夫

2011年2月14日月曜日

憲法9条関係ツイート(2010年12月〜2011年2月半ば)


「九条の会」メルマガ108号 編集後記 朝鮮半島情勢に関する「武力紛争予防のためのグローバル・パートナーシップ(GPPAC)東北アジア」の声明、主要な6点の呼びかけを紹介。1.今すぐあらゆる軍事行動を止めること、 2.対話の... など。 http://bit.ly/fKo0aZ(2010年12月10日)

軍事力を誇示して隣国を脅すのは愚かしい。軍拡競争に陥るだけである。国際問題の解決はあくまでも外交で。憲法九条こそが国を守る:新防衛大綱 —「動的防衛力」を構築 中国、北朝鮮情勢懸念、毎日新聞 http://bit.ly/gQERrS(2010年12月24日)

憲法九条を忘れ、「死の商人」の肩を持つ妄言。嘆かわしい:"武器輸出三原則の見直し「先送り」は日本の安全保障に禍根を残す" 日経ビジネスオンライン http://bit.ly/eG4LcX(2010年12月24日)

ニュースレター九条科学者(No. 6)九条科学者の会事務局 2010.12.27 http://bit.ly/gmMszU「新安保懇」報告・平成22年版防衛白書にみる民主党政権の安保・防衛政策の危険な内容 など(2010年12月27日)

国民は眠ってなんかいません。憲法九条を守れの運動の広がりを見て下さい!:「私はあえて今回の新防衛計画大綱を歓迎する。新防衛大綱はわが国の防衛政策のパンドラの箱を開けてしまった。国民も目覚めるだろう。」— 天木直人 http://bit.ly/gSwcBm (2010年12月27日)

自民党・民主党間で今回の通常国会における参院憲法審査会規程成立への合意があると言われている。折しも新防衛大綱が策定され、中国・北朝鮮を仮想敵視する防衛体制作りが検討されており、この動きは容認できない。—「九条の会」メルマガ110号編集後記 http://bit.ly/gIRLDa(2011年1月25日)

頼もしい言葉である:「憲法9条を守る運動こそが、沖縄の問題を解決する唯一の方法であると、私は思います。…『九条の会』は、会場の大小はあっても、過去に訪れたところはいずれも満員の盛況でした。」— 日野原重明(聖路加国際病院理事長・99歳)、朝日新聞2011年2月5日付けe5面(2011年2月5日)

ニュースレター九条科学者 No. 7 http://bit.ly/h0nIkj 九条科学者の会発足6周年記念集会「おおいに語る─沖縄・日米安保・憲法九条」3月13日(日)のお知らせ、憲法九条関連日誌、書評:伊波洋一『普天間基地はあなたの隣にある。だから一緒になくしたい』など。(2011年2月14日)

多幡達夫

2011年1月17日月曜日

「大阪空襲訴訟2周年のつどい」が開かれました

 太平洋戦争開戦から69年目の2010年12月8日、大阪空襲訴訟二周年のつどいが大阪市中央区ドーンセンターで開かれました。参加者は350名でした。原告団代表世話人の安野輝子さん(鳳南町)が挨拶されました。ここに紹介します。




 こんばんは。大阪空襲原告団・代表世話人の安野輝子です。師走の気ぜわしい時期の夜にもかかわらず、本日はこんなにもお集まりいただきありがとうございます。大阪空襲訴訟2周年の集いをもてるのも、皆さまのご支援のおかげと感謝いたしております。

 あの戦争から65年。私たち空襲被災者は、一日も心の安らぎのない人生を強いられてきました。私は6歳の時、米軍の落とした爆弾の破片をうけ、その場で左足が千切れてしまいました。それから芋虫のように生きてきました。10代になったとき、母に「なぜあの戦争に反対してくれなかったの、戦争さえなかったらこんなつらい目にあうこともなかったのに」と責めては亡き母を困らせました。この裁判を起こしてから、私はその頃をよく思い出します。そして「なぜ立ち上がってくれなかったの」という少女の叫びは、いま私たち自身に向けられているのだと思っています。

 国が私たち空襲被災者に何ら援護措置をとらず、放置してきた最大の根拠は、「戦争で受けた損害を国民は等しく受忍しなければならない」という戦争被害受忍論です。もし私たちが、このまま我慢とあきらめの人生を受け入れたまま死んでしまえば、同じ歴史が繰り返されることになります。子や孫たちの世代にまでも「あなたのおばあさんは、戦争被害を受忍したんだよ。あなたたちもガマンしなさい」と国に言わせることがあってはなりません。

 日本を取り巻く内外の情勢がさまざまに厳しい今、私たちは10年、20年先の子や孫たちの未来が気になります。だからこそ、戦時戦後を生きてきた私たちが戦争被害受忍論を打ち破り、奪われてきた人権を取り戻し、本当の民主主義を子や孫の世代に手渡したいのです。それが私たちのこの裁判を続ける一番の原動力であり「遺言」です。空襲訴訟、そして国に差別なき戦後補償を求めるたたかいはこの国の、この世界の未来を築くたたかいだと確信しています。

 私はここ数日、奪われた足の付け根と体中の痛みに見舞われ、今日のつどいに参加できるか心配していました。会場にたどり着いて、皆さまの支えがあるかぎり、ダウンしたり弱音を吐いたりしながらも頑張れる気がしました。

 今日はお越しいただきまして、本当にありがとうございました。

『憲法九条だより』No. 13(2011年1月1日)から

戦争体験を語る

旧朝鮮で経験した敗戦と帰国の苦難

鳳東町 藤田 均さん


 自分は朝鮮(当時)で生まれ育ちました。父は北海道、母は福岡出身ですが、平壌の西南、大同江という内海に面した町、兼二浦(現在の松林市)で昭和10年4月、5人兄弟の3番目としてこの世に生を受けました。

 兼二浦は日本製鉄(後の八幡製鉄)の町で6千人の日本人が暮らしていました。父は社員でしたが、昭和15年病死の後、母が働くようになり、ずっと社宅に住んでいました。町は怖いことも無く、表向きは平和でしたが、日本人が悪いことをしており、朝鮮人は抵抗もせずジッと辛抱していることは、自分のような子どもにも分かりました。例えば、日本人の奥さんがリンゴの入った籠を頭にのせて売っている朝鮮女性の足を引っ掛けて倒し、転がっているリンゴを笑いながら持ち帰るのを見かけたことがありました。

 終戦の日ですが、油をとるための松の根を持って校門に入ったら、校庭で玉音放送が始まるところでした。整列して聞きましたが、雑音で校長先生も内容が分からなかったようです。1~2時間後に日本が戦争に負けたと知りました。社宅は何時もどおり平静でした。間もなく、日本の神社が燃やされたり、朝鮮人の戦勝行列が近くを通ったりしましたが、日本人が危害を加えられることはありませんでした。

 8月30日頃「2~3日で帰らせるから身の回りのものを持って集まれ」と、刑務所跡らしい施設に連れていかれ、翌四月まで8ヵ月隔離されました。4畳半程度の部屋に兄弟5人と母と叔父と祖母の9人が入れられましたが、まだよい方でした。出入り口は北朝鮮保安隊が見張っていましたが、施設内は自由で、身の危険を感じることはありませんでした。食べ物はサツマイモ一切れや、固いとうもろこしでした。寒いし何もすること無いしお腹はすくし、辛い期間でした。ここでは栄養失調で亡くなったり、女の子が目が見えなくなったり、男の子が歩けなかったり、発疹チフスが発生したり、弱いものから食べ物を取り上げるなど悲惨なことを見たり聞いたりしました。

 氷が溶け出した頃、集団で夜中に船や汽車での脱出が始まりました。たまに失敗して連れもどされたところも見かけました。自分は北朝鮮保安隊から帰国許可を得た病人部隊に、盲目の叔父叔母と加わりました。20歳の叔父が隊長になりました。母や兄弟は2日前の夜、船で脱出していました。自分には何も告げていませんでした。無事に日本へ帰れるか、再び親子が出会えるか分からない中、母なりに考えた辛い決断だったのでしょう。


 4月10日「兼二浦駅」から汽車に乗り、「黄海黄州駅」で降りて宿に泊り、保安隊の臨検を受けました。翌朝再び汽車に乗り、38度線近くの「海州駅」に向かいました。駅に止まるたびに隊長の叔父が駅員に包みを渡すのを窓から見ていました。受けとらなくても「気をつけて!」という駅員さんもいれば、受け取っても悪態つく駅員さんもいました。叔父はどんな人にもぺこぺこと頭を下げ続けていました。「海州駅」にロシア軍がいるからと、二つ手前の駅に降り、小さい家で40人が座ったまま寝ました。

 この民家は38度線のわずか北に位置し、翌日から国境を越える苦しみが始まりました。明るくなって出発。ぬかるみの赤土農道を病人は荷車で。途中から雨で、さらにヒョウが混じり、リュックの芯までボトボトになっても歩き続けました。寒かった記憶はありません。それほど緊張していたのだと思います。40人の列もバラバラになり、立ち止まったり引き返したり…。夕方になってやっと一軒の農家に全員揃いました。区切りはなかったですが、どうやらこの民家は国境線の中だったようです。翌日もロシア軍と北朝鮮保安隊に見つからぬよう、農道を歩き続けました。

 2日間歩いて南鮮の「泉決駅」(多分)に着き、有蓋貨車に詰め込まれ、2日間ほどかかって「ソウル駅」に着きました。4月15日と記憶しています。南鮮でも食べ物はなくコーリャン、キビ、大豆が少し入ったお粥が大人子どもの区別なく配られました。誰一人苦情も言わず、トラブルも無く、静かに行動していました。「日本へ帰りたい」、「日本は戦争に負けたのだからおとなしくしないといかん」と不安に思っていましたが、朝鮮人から嫌がらせをされたことはありませんでした。

 「ソウル駅」から有蓋貨車に乗せられ、40人揃って「釜山駅」へ着きました。そこで偶然母と再会できました。引き上げ船で福岡に上陸したのが昭和21年4月18日。朝鮮にいるとき「日本は美しい国だ」としつこく言われていました。上陸して生まれて初めて見た日本は、一面焼け野原で美しくはありませんでした。(元自治会長)

(聞き手と写真=小倉)
『憲法九条だより』No. 13(2011年1月1日)から

2011年1月16日日曜日

愛が深まる月


        鳳東町・浅井千代子

読書会で
八月課題図書
林京子の「祭りの場」を読んだ
著者は六十五年前の
長崎原爆の被爆者
自らの体験を書き
原爆文学の代表作の一つ
今も読みつがれている

一九四五年八月九日
その日アメリカ軍二つ目の原爆投下
立ち昇り天を覆ったキノコ雲
太陽はもとより
地上に存在するあらゆるものを溶かし
人類はじまって以来の
この世の果てを実験した
放射能の恐ろしさ
原爆症の恐怖は
半世紀以上経た今も
命を破壊しつづけ
見えぬ悪魔の影は子子孫孫にまで及ぶ

頁を繰りながら
幾度目を閉じ
本を胸に抱きしめたことか
しみじみ
今日あるすべての命を
いとしいと思う

アメリカの核の傘など論外
世界に反核を軸とした平和こそ…

益々平和憲法九条の存在が
重要になってきた
八月は
九条への愛が更に深まる月

『憲法九条だより』No. 13(2011年1月1日)から

[お知らせ]
九条署名:当会の当面の目標=3,000筆、現在=2,500筆(堺市合計=116,388筆)

『憲法九条だより』No. 13 の他の記事:
(タイトルをクリックすると別ウィンドウに開きます)